うっすら隠して見ないようにしてた攻撃性(神とのコミュニケーション障害④)
イエスちゃん、こんにちは。
リトリートの最終日のことなんじゃけど。
前のブログで書いたこと・・・
自分に向けられとると無条件に思っとった
「痛みをともなうような激しい攻撃」
これ、
自分を無垢な被害者にしとくために誰かから(外側から)来とるように感じよっただけで、
実は自分がその攻撃を実在させとったんじゃ、
っていうことを体験的に感じさせてもろうてから、
「無垢な自分」
っていう仮面の奥を見ていかんといけん、って感じとった。
ほんまは自分が攻撃しとるっちゅうことを見んようにするために、
うっすらと、気づかんように、うすーーーーく薄めた(つもりの)敵意を周りと世界に向けながら
反撃を恐れとる。。
そういうあり方が
ほんまにほんまにわしのあり方のベースになっとったんじゃなって、
それを見んとどうしようもないの、って感じ始めとった。
(身近な人間関係だけでなく、外側の世界、社会とか世界にたいしてもそういうふうにしとる)
セッションでは、具体的な人にたいしてどういう攻撃の思いを抱いとったんかっていうのを浮上させて、エクスプレッションさせてもろうた。(見下してたとか、バカにしてたとか)
これをやらずに、表面的にいい関係をつくろっとけば波風はたたんけど、
それじゃあわしのなかで起こっとることを抑圧して温存することにしかならんし、
わしが投影しとるその人の真の姿っていうのにも触れられんような気がしとった。
波風は立って、今までのようなコミュニケーションができんようになったとしても、
絶対こっちのほうがええし、ほんものに至る道じゃっていう感じがしとった。
自分のなかにある光じゃないものを光のもとにさらすこと。
ほいじゃし、
その攻撃性を認めてはじめて、
さらにその下には何があるんじゃろ?って
見ていくことができる。
ほしたら、
まだはっきりは受け入れられとらんかもしれんけど、
果てしない無価値感みたいなのがありそうな感じがしとる。
無価値感と、そこからのうらみのような感情。
こういうのがほんまに感じられるとき、
あのしょうこさんと目を合わせとるときに実感した「痛い攻撃」とかもそうじゃけど、
「私が間違ってることを望む」
「これが間違いじゃったらわしは得をする」
っていうことについて心底そうじゃと感じられるし、
明らかすぎてこれを自分に言い聞かせる必要もないくらいに感じられる。
それがありがたい。
「わしは知覚に問題を抱えとる」っていうことを受け入れやすくなる。
昨日たまたま見たデイヴィッドの新しい動画で、
「ゆるしたり、コースの概念を受けれたりできるようになるために、
その前にまずあなたがする必要のあるたったひとつのことがある」
「それは自分が知覚に問題を抱えていると認めること」
ていうことが言われとった。
(最近ラファエルやのりこさんもよう言いよる)
コミュニケーションをとおして浮上してくるもの(痛みをともなうような激しい攻撃とか、絶望的な無価値感とか)を認識することで、
「自分が知覚に問題を抱えとる」
と認めやすくさせてもらえる、ていうのはありがたい。
イエスちゃん、導いてくれてありがとう。