「リトリートの主役」(神とのコミュニケーション障害⑤)

エスちゃん、
今回のリトリートのエクスプレッションセッションでは、スポットライトが当たる人とそうじゃない人がおるように見えると最初から感じとって、自分はそうじゃない人なんやろな、と思っとった。

実際、セッションのときのカメラの数(スポットライトが当たる側と当たらん側がテーブルの両サイドにわかれとるように見えて、それぞれに向けられとるカメラの数があきらかに違うという知覚)をみたら一目瞭然やと思ったし、セッションの流れ的にもそうじゃったように知覚しとった。

その知覚にたいする悲しさや怒りも出てきたけど、
このリトリート全般として、わしとか誰かとか個人の癒やしっちゅうのはないっていうのも感じられ始めとって、
ほじゃけえ「スポットライトが当たる人」の最大限の癒やしが自分にとっても恩恵じゃし、そのために最大限自分が使われることが恩恵じゃ、という実感もたしかにあった。


スポットライトが当たる人とそうじゃない人。
最終日はその極みのように見えることが起こったように見えた。

わしは最初に闇をエクスプレッションしたんじゃけど、
その後、
れいさんとようこさん、しょうこさんとじゅんこさんの間で愛の溶け合いが起きて、
自分のなかではそのコントラストや、
愛が向こう側にあってこっちにはないっていう分離感、被害者意識、絶望感、愛を目の前でみせつけられながら自分は愛から除外されてるという所在のなさ、みたいなものがガンガン上がってくるような状況が展開していったように見えた。

多分、今回のリトリートのこのタイミングまでの流れがなければ、
どこかのタイミングでぷつんと切れて、「向こう側」と「こちら側」を完全に分離させる、分離を確定させるっていうことが自分のなかで起こったと思う。
そうしたい力動をこのときもたしかに感じとった。

でもこのときは、
「コミュニケーションを分断せずにダイブしてええんじゃ」っていう実感があったことに救われた、と感じとる。

何が自分のなかから出てこようと、「目の前の存在」とのコミュニケーションのなかにダイブするんじゃってつもりでおったら、この「分断を確定させてしまいたい欲望」にひきこまれることがなくて、なんか大丈夫じゃった。

あらゆる闇のような思いや感情も出てきながら、目の前で展開しとる愛の溶け合いのようなものもありながら、それらすべてが自分のなかに知覚されとるなかで、それですべて大丈夫で、今目の前で愛に溶け合っとるように見える「存在」とのコミュニケーションに、
たとえ自分のなかに醜い感情や思考があっても飛び込んでいくことができる、開いていくことができる、、、
そういうふうに感じながら、この愛の溶け合いのようなことが目の前で展開しとる場におった。

だんだんと、このミクスチャー【混合物】(いろんな闇も上がってくるし、目の前に愛もあるように見える場)にダイブした先には神とのコミュニケーションがあって、それ以外のものはすべて取り去ってもらえるから大丈夫じゃっていうような、そういう大丈夫さと広がりを感じはじめとった。

そのあとは、なんかこの個人のけんたの感情がどうとかっていうのが不思議と気にならんような、不思議なよろこびみたいなのを感じとった。


「映画のコアはスピリットなんやで」ってラファエルが言っとったのを思い出した。