やっとることをすべて認めたい。ほいでそこからの助けを求めたい。
イエスちゃん、ありがとうございます。
兄弟の態度や姿勢(の変化)とか、
じゅんこさんのブログ、
そして最新ののりこさんのブログ、
最近すごく、はじめてかのように、みんなにたすけられているのを感じる。
じゅんこさんのブログや姿勢には
あまりの素直さに、最初「きもい!いやじゃ!」という反応がでとった。
でも、こころのなかで感じとる過程を克明にすなおにあらわしながら、聖霊へのまっすぐなおもいを書き記してくれとることに、ほんとうに助けられとるのを感じる。
ありがとうございます。
のりこさんの最新のブログについても、
これまでこんなにも助けを感じられたことはなかったと感じた。
前回の勉強会でののりこさんの話にもすごく助けられたけど、
本当に以前はぜんぜんたすけを受け取れてなかったんじゃなと思う。
その内容。
私というこころのなかで、
ほんまに被害者と加害者を演じる必要性を感じて演じとって、
その1キャラに完全に同一化しとるっていうこと。
その必要性の背後には、
自分自身が邪悪だと完全に信じ切っとる(自覚の外側で)っていうことがあるってこと。
それを自覚に上げないために、この被害者と加害者のドラマを演じる必要があるのを感じとるってこと。
ああ、ほんまにほんまにこういうのすべて取り消してほしい、っていうのがあるけど、
それと同時に、絶対にその邪悪さを見とうない、見ずに温存しときたい、そのためならどんな被害者にでもなってやる、それをやり続けたいっていう欲求も確実に深いところで持っとるんじゃの。
テネットについてのデイヴィッドのスプリーカーを聞いとるとき、
その内容から、
『誰かによる被害者』っていうだけじゃなくて、
『「過去」と「未来」による被害者』っていうのも演じようとしとるんじゃっていうのが入ってきた。
わしは過去の結果でしかないけえ被害者じゃ、今のわしは◯◯っていう過去の結果じゃけえ、自分ではどうしようもないんじゃ、とか。
未来にこういうことが起きるはずじゃけえ(経済的な破綻とか死とか)、わしはその被害者でしかありえんのじゃ、とか。
(インストゥルメントフォーピースの思考のところじゃの。C1とC2。)
そういうふうにして被害者であることを続けられる。
過去や未来があると信じとる限り、そういうふうにやり続けられる。
そうしたくてやっとんじゃっていうことを、まず意識に上げたい。
自分がやっとることを包み隠さんようになりたい。
ほいでそこからのたすけを求めたい。
お願いです、聖霊、イエスちゃん、
そうできるように助けて下さい。
わしは被害者としての同一化から自由になりたい。
今もう一回のりこさんのブログ見よって思った。
聖霊にこころを支配してもらう、ってどういう感じなんじゃろうか。。
それをやってもらってもええ、そうしてほしい、っていうのがすこしでてきとるようにも感じるんじゃ。
ありがとうございます。