エスちゃん、ありがとうございます。

今日やっているレッスン107。
「真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する」

何日かとどまっているけど、今日あらためて読んでみたとき、感じるものがあった。

まず、聖霊が一緒に歩いていると自覚できるようにたすけてほしいと頼むことから始める、というのがすごくいいなあと感じられた。

「まずこれを行うとき
あなたとともに行く聖なる存在に、一緒に歩む道すがらその存在をあなたが自覚していられるようにしてほしい、と頼むことから始めよう。」(レッスン107,8)

まず最初に、自分ひとりでやるんじゃないということを最優先にすること。

これを毎朝こころに思い出させたい。

 

そしてこれに続く次の文章を読んだとき、生まれて初めて「自分は聖霊と同じものからできている」という感覚が多少なりとも入ってきた。

「あなたは、骨と血と肉でできているのではなく、その存在に生命の贈り物を与えた想念とまったく同じ想念によって創造された。

その存在はあなたの兄弟であり、父が知るあなたとまったく同じものなので、あなた方は二人とも同じものである。

ともに歩んでくれるようにとあなたが頼んでいるその存在とは、あなたの真の自己なのだから、あなたのいるところにその自己がいないということがあるだろうか。」

「あなたが自己から離れていることが可能だと教える心の中のすべての誤りを、真理は正してくれる。

あなたは、今日、その自己に話しかけ、彼の機能(はたらき)をあなたを通して全うさせる誓約をする。

彼の機能(はたらき)を共有するということは、彼の喜びを共有することである。」


彼(聖霊)とわたしは同じ存在で、だからこそ彼の機能をわたしをとおして全うさせることができる・・。

 


今までは自分というものをとらえるとき、やっぱり「聖霊とは違うもの」としてのこの人間けんたに焦点があっていたんじゃと感じた。

じゃけえ「聖霊の機能を自分をとおして全うしてもらう」みたいなアイデアにたいしては、被害者意識がどうしてもぬぐえんというのがあったと思う。

なぜなら聖霊とわしは違う存在じゃから。

そしてその「聖霊とは違った別の存在である私」というところには、あの激烈な自己憎悪やそれを前提にした様々な「わたしについてのコンセプト」が含まれてたんだろう。

 

今日この文章をよんだときに感じられた、
「私は肉体をもった人間で、聖霊というなにか自分とは別の種類の存在、自分とは違う得体のしれない力をもっている何かとやりとりしながら、救いを求めて歩いていかないといけない」というのではなくて、

わたしとはその聖霊と同じものでできている、同じ源から来ている・・という感覚は、すごく新鮮でありがたいものだと感じられた。

わたしというもののアイデンティティがこの肉体けんたにあるのではなくて、
誰とも違いのない、聖霊とおなじものなんだ、ということに置かれてこそ、
けんたという人のなかに沸き起こってくるどんなことでも、
それをそのまま受け入れてゆるして手放すことが可能になるんじゃないだろうか。


今日電車に乗っているとき、はじめていわゆる「マスク警察」に会った。
太ったおじさんが目の前にやってきて、怒った様子で「マスクなんでせんのや。電車に乗っとるんならマスクしろ!」と言った。

自分のなかでは恐れを抱いていたことでもあって、ついに来た、という感じもあって、実際恐れや怒り、悲しみも湧いてきた。

行動としてはただ「はい」と言ってマスクをつけた。

いろんな感情は出てきたけど、
この怒ってきたおじさんも、わたしも同じ、聖霊と同じものでできてるんだとみたい。
同じ根っこなんだと。同じものなんだと。聖霊も含めて。

同じものからできているんだとみたい。

別々に行動しているように見えるパーソンは、知覚のあやまりなんだと教えてほしい。

自分ではそう見ることはできないので、そう見れるように助けてほしい。

どうかお願いします。