インストゥルメントフォーピース 2020年10月31日〜11月1日

エス
こうすけさんとインストゥルメントフォーピースをやらせてもらえました。

その復習のためにもう一回ここに書いてみたいと思います。

 

https://levelsofmind.jp/wp-content/uploads/2019/03/instrument-for-peace_jp.pdf (日本語版)

https://levelsofmind.com/wp-content/uploads/pdf/instrument-for-peace.pdf(英語版)

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仲間がブログであたらしい気づきや癒やしの経験について書いていることについて考えるとき、
あせり、イライラ、引きずり下ろしたいという攻撃心を感じます。

なぜなら、抜け駆けして先に行くその人や、公平に導かないスピリットが責められるべきであるし、
未来に自分だけ取り残されて先に進んだ人たちから憐れみの目で見られることをが起こるのを恐れているからです。

これらのことは、私が、人より先んじて幸せを手に入れる必要に迫られた、分離した欠けた存在であり、私のもとに今幸せはないのだということについて正しいことを証明しています。

私が求め期待している(いた)のは、
自分だけが誰よりも先に「しんのしあわせ」というたまものをゲットすることです。
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私は今の感情を望まない。
だから私の知覚が真実ではない可能性を考える準備ができています。

癒やしのプロセスを受け入れるため、
私がこの動揺(嫌な気持ち)に与えた意味を超えて見ること、
そして心の内側を見ることを意志します。

 


「私はこの知覚のなかで自分が演じている役割を、罪悪感なしに見ることができる方法があることを学びたい。」

うん、この知覚のなかで自分が演じている役割を、罪悪感なしに見ることができる方法があるのであれば、それを学びたい。
そして罪悪感なしにハッキリ見たい。この知覚のなかで自分が演じている役割を。

 


「私はこの知覚について、自分の見方こそが正しいのだ、という望みを手放します」

うん、他に見方があるのならそれを学びたい。
自分の固定した見方から自由になりたい。
愛のある、広がりのある見方を受け入れたい。


「私はこの知覚について自分の見方こそが正しいのだと主張することよりも、幸せでありたい。」

うん、自分の見方こそが正しいのだ!と主張するよりも、幸せを感じたい。

 

「私は、自我(つまりゆがんだ考え方・見方)を通して、自分の動揺の原因とその解決方法が心の外側にあると知覚している。

この投影は実にリアルに見える。

なぜなら、その目的は心が内側を見ることを妨げることだから。」


「もし動揺の原因と解決法が心の外側にあるのだとしたら、私は自分の心の状態について実に無力な被害者ということになります。

私が投影を利用すること(内側に見たくないものを外側に見ること)が、
私に力がなく、無力な被害者のように感じられる理由であり、

『抜け駆けして先に行く人』『公平に導かないスピリット』
あるいは『未来に自分だけが取り残されて先にすすんだ人たちから憐れみの目で見られることを恐れること』が、
私の動揺の原因のように見える理由です。」

 

「私が自分の気づきのなかに入れることを拒否した信念を、誰かや何かが私の心に映し返しているときにだけ、私はその誰かや何かにたいして動揺します。

 

私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、

それは自分の動揺とその解決方法をあるがまま、つまり動揺も解決方法も自分の心の中の決断なんだと見るのを避けるためであり、

そのかわりに、自分が慣れ親しんだ自己概念や、他者とは、世界とはこういうものだという概念を維持するためにそれをやっているんです。

この心のトリックは罪悪感と恐れをどこか別の場所へ移し替えるように見えますが、実際には動揺した感覚を維持し続けることになります。

 

「自分や他者や世界」といったイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分自身が肉体と肉体の世界によって制限されていると信じることを必要とし、
私という存在の真実であるスピリチュアルな抽象性を否定することになります。

あらゆるすべての動揺を手放すための最初のステップとして、
自分の外側にあると思っていたことが、実は心の中にあるのだと、私は見たい。


「仲間が新しい気づきや癒やしについてブログに書いているのを見ることに動揺する」ということは、
抜け駆けして先に行くその人や公平に導かないスピリット、
あるいは未来に自分が取り残されて先に進んだ人から憐れみの目でみられることが
私の罪悪感と恐れの原因だということにしようという、一つの企てにすぎない。


「仲間が新しい気づきや癒やしについてブログに書いているのを見ることに動揺する、イライラする」ことは、私の知覚したことが私の望みに反しているとき、価値があって正当化できるように思える。

私はまだ、自分が人より先んじて幸せを手に入れる必要がある分離した欠けた存在であり、私のもとに今幸せはないのだと信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
自分だけが誰よりも先に「しんのしあわせ」というたまものをゲットすることが必要だと考えています。

「この欠落の信念と、その欠落の信念から必然的に生じる期待・渇望を永遠に心に抱き続けることは、あなたにとって心の平安よりも重要なことでしょうか?」

いいえ!
そう聞かれるとまったくそうではありません。

私のこの欠落の信念こそが間違っているのだと教えてほしい。

 


この世界のあらゆることは、いっしょになって私の善きことのためにはたらいてくれています。

私が自分の動揺の原因だと考えていたことはまったくそうではありませんでした。

外側の人やできごとに動揺するという選択は、その真の原因である、今心の中でくだされている分離と欠落を信じるという決断と決断の力を見ないという選択です。

動揺の原因は過去や未来にあり、今この瞬間はその影響下にある結果にすぎないのだと見ようとする試みです。

 


私が他の何よりも今欲しいのは平安です。

なので私は自分の唯一の目的である平安と再びつながるため、

今まで自分の心の中に持ち続けてきた
「自分は人より先んじて幸せを手に入れる必要に迫られた、分離した欠けた存在であり、私のもとに今幸せはないのだ」
という欠落の信念に疑問を呈し、

「自分だけが誰よりも先に『しんのしあわせ』というたまものをゲットしたい」
という欲望を、私の自由意志にもとづいて手放します。

 

 

心の平安とは、今ただちに感謝のうちに下すことができる、今この瞬間の決断です。

「罪悪感」や「結果にたいする恐れ」があり得るように思えたのは、
「過去や未来に原因がある」という信念を持ち続けることを私自身が決めたからでした。

私は自分自身が過去や未来に与えた意味を手放し、解放され無垢である今この瞬間へと私の心を開きます。

私は、
この世界の中にあると思ってきた自分の動揺の原因が、実は吟味されてこなかった私自身の心のなかの信念と決断だったんだ・・ということを認識できたことに感謝します。

心の平安のために、私は新しく決断しなおしました。


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ていねいに見ていくと、
本当に本当のことを受け入れたい!
誤った信念と決断に拘泥していたくない!
と思えてきます。

そう感じられることがありがたいです。

 

自分のこころの幸せのために決断し直してあげたい。

もう、待ったなしで。

時間を無駄にしたくない。

 

エス、導いてくださりありがとうございます。

どうか私が平安のために決断しなおすことができるように、
助けて下さい。