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イエス、
この前えばちゃんの勉強会の最中、そこでのりこさんがガイドしてやられていたインストゥルメントフォーピースの内容にインスパイヤされたことがありました。
信念のところで、
「自分はこのような苦しい感情を感じるに値するんだ、そうなって当たり前な罪ある存在なんだ」
という信念があるんだ。。。というのが入ってきた。
神の私への意志は完全な幸せなのにも関わらず(レッスン101)、
それ以外の意志がありえて、自分はその別の意志によって苦しむに値するということを信じている。
私は欠けているので、このような苦しい経験をするのにふさわしいと信じている。
だから「ほーら、やっぱりこういう苦しい経験するでしょ?」といいたくて、指差したくて、そういう世界を見ている。
ああ、そうかーーー、と感じた。
そしてそうやって自分の苦しみを維持しつつ、自分自身のまわりにたいする攻撃を正当化しとる。
こんな境遇なんやから、こんなに苦しみを与えられとるんじゃから、わしには攻撃(反撃)する権利があるって。
本当にやめたい。
そのころ、ちょうど父から連絡があって会うということになったとき、
父と会うことについての怒り、父にたいする怒りがすごいあることに気づいた。
そのことについて見ていったとき、
この怒りは最近のコロナ騒動やマスク騒動で電車や街中の人々に感じているのと同じような怒りだということに気づいた。
つまり、
「誰かが(自分の定義による)間違ったことを信じていて、その間違って信じた内容にもとづいて私を攻撃してくる」という恐れと怒り。
コロナやマスクについてはそれが極めてわかりやすくあらわれてくれたし、
そのおかげで父や家族にたいしてもそういうことを感じていたことが浮上してきた。
彼らが間違ったことを信じているせいで、それにもとづいたいろいろな要求や攻撃が私に向けられると信じてきた。
それによって私は苦しむと信じている。
私にはそういう苦しみがふさわしいと信じている。
そういうことなんですね。
すごい助けになった。
ありがとうございます。
スタバで並んでいるとき、あらゆる心理的な苦しみがこれなんだということ、すべて自分の思いと欲求に苦しみの元ががあるんだと感じた。
周りの人たちそのものが、私に恐怖や苦痛をもたらすわけではない。
こういうのを見ていったら、どういうわけか父に対しての怒りだったものは父に対しては感じられなくなっていった。
そして父と会っていっしょにご飯を食べた。
父とのふれあいのなかで、感じたもの。
父からの愛。与えようとしてくれている愛。
ずっと与えようとしてくれてきたんだな、と感じた。
認めようとしてこなかった。
わたしがその愛を認識して、受け取ることができますように。
わたしが受け取ることによって、父にもますます愛の経験がひろがっていきますように。
関係の中にある、本当のことだけが残る。
本当じゃないものを手放して、本当のことだけに目を向けて、受け入れたいです。
イエス、どうか助けて下さい。
ありがとうございます。