インストゥルメントフォーピース 2020年11月8日

エス
昨日こうすけさんといっしょにインストゥルメントフォーピースをやらせてもらえました。
ありがとうございます。

昨日やった内容は自分にとってかなり大きな不安・苦しみのように知覚していることでしたけど、やってみてかなり大きなたすけになりました。

ありがとうございます。


「真理はあなたの欲求を通して取り戻される。
それはあなたが真理以外の何かを欲することにより失われたからである。」(奇跡講座20章8-1-2)

 

「私がバイデン勝利や中共NWOなど世界情勢の流れについて考えるとき、
大きな不安、恐れ、怒りと攻撃心を感じる。

なぜなら、人類を家畜のように管理しようとしている人たちが責められるべきであるし、
未来に自分が家畜のように扱われ、人としての尊厳が踏みにじられゴミのように殺されることが起こるのを恐れているからです。」

(とっても強くこの恐れを信じてる。こんなん怒って当たり前やろ、不安になって当然やろ!と信じて言い張っている)


これらのことは、私が
傷つけられ、被害を受け、尊厳を奪われることが可能な、脆く無力で無価値な存在であることについて正しいことを証明しています。

 


私は以下の事象のなかで私が演じている役割を、罪悪感なしに見る方法があることを学びたい。

「私がバイデン勝利や中共NWOなど世界情勢の流れについて考えるとき、
大きな不安、恐れ、怒りと攻撃心を感じる。

なぜなら、人類を家畜のように管理しようとしている人たちが責められるべきであるし、
未来に自分が家畜のように扱われ、人としての尊厳が踏みにじられゴミのように殺されることが起こるのを恐れているからです。」

この知覚のなかで自分が演じている役割を、罪悪感なしにハッキリ見れるのであれば、罪悪感なしにハッキリ見たい。

 


私は以下の知覚について、自分が正しくありたいという望みを手放します。

「私がバイデン勝利や中共NWOなど世界情勢の流れについて考えるとき、
大きな不安、恐れ、怒りと攻撃心を感じる。

なぜなら、人類を家畜のように管理しようとしている人たちが責められるべきであるし、
未来に自分が家畜のように扱われ、人としての尊厳が踏みにじられゴミのように殺されることが起こるのを恐れているからです。

これらのことは、私が
傷つけられ、被害を受け、尊厳を奪われることが可能な、脆く無力で無価値な存在であることについて正しいことを証明しています。」


私はこの自分の見方・考え方が正しいんだ!という言い張りをやめてもいい。
別の見方ができる可能性があるのなら、それを聞いてみたい。

私はこの自分の見方が正しいんだと言い張るかわりに、
幸せであることを望みます。

自我という歪んだ考え方・見方を通して、
私は自分の動揺の原因とその解決方法が心の外側にあると知覚している。

この投影は非常にリアルに見えます。

なぜなら、その目的はこころが内側を見るのを妨げることだから。

 


もし私の動揺の原因と解決方法が心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態について実に無力ということになる。

私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、
私が無力さを感じる理由であり、

人類を家畜のように管理しようとしている人たちや、
自分が家畜のように扱われ、尊厳を踏みにじられてゴミのように殺されることが、
私の動揺の原因に見える理由なんです。

 

「私がバイデン勝利や中共NWOなど世界情勢の流れについて考えるとき、
大きな不安、恐れ、怒りと攻撃心を感じる。

なぜなら、人類を家畜のように管理しようとしている人たちが責められるべきであるし、
未来に自分が家畜のように扱われ、人としての尊厳が踏みにじられゴミのように殺されることが起こるのを恐れているからです。」

これらすべては、
「私は、
傷つけられ、被害を受け、尊厳を奪われることが可能な、脆く無力で無価値な存在である」
という信念の結果として現れたものです。

(動揺はこの信念から来ているのに、NWOなど外側の事象によって動揺していることにしようとしている。今心の内にある信念をみないで済むように。 動揺の原因が心ではなく外側に、今でなく未来や過去にあると見ようとしている。)

 

私は、誰かや何かが自分で気づかないようにした信念を映し返しているときにだけ、その誰かや何かにたいして動揺します。

私がこの世界の誰かや何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決法をあるがままに(つまり心の中の決断として)見ることを妨げるためであり、
そのかわりに心の中を見ないで済むように作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを維持するためなんです。


この心のトリックは罪悪感や恐れをどこか別の場所に移し替えるように見えますが、
実際には動揺の感覚を維持し続けることになります。

自己概念、他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分を肉体と肉体の世界に制限し、
本当の私自身であるスピリチュアルな抽象性を否定することを必要とします。

すべての動揺を手放す最初のステップとして、
自分の外側にあると思っていたものを、自分の心の中に見ることを私は望みます。

 

私がバイデン勝利や中共NWOなど世界情勢の流れについて動揺することは、

人類を家畜のように管理しようとしている人たちや、未来の考えである
自分が家畜のように扱われ、人としての尊厳を踏みにじられてゴミのように殺されることが、
私の罪悪感、恐れの原因であることにしようとする、ひとつの企てにすぎません。

自分の罪悪感・恐れの原因を、本来ある場所とは別の場所にみることによってそれらを温存しようとする企てにすぎません。

 

バイデン勝利や中共NWOなど世界情勢の流れが私が求めているものに反するとき、
「動揺すること」には意味があって価値があり、正当化できるように見えます。

私が求めていた(いる)期待していた(いる)のは、
「外側の世界が平安で、人の尊厳を踏みにじったり管理しようとする人たちが存在しないこと」です。

私はまだ、自分が
傷つけられ、被害を受け、尊厳を奪われることが可能な脆くて無力で無価値な存在である
と信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには
「外側の世界が平安で、人の尊厳を踏みにじったり管理しようとする人たちが存在しないこと」が必要だと考えています。


この欠落の信念と、その結果必然的にもつことになる期待・渇望・必要性は、
私にとって心の平安よりも重要だろうか?????

 


この世界のすべてのものごとは、ひとつになって私にとっての善きことのために働いてくれています。

私が私の動揺の原因と考えていたものは、まったくそうではありませんでした。

〇〇という外側の知覚に動揺するという選択は、
その動揺の真の原因である、
今この瞬間心の中でくだされている「分離と欠落を信じる」という決断と
その決断の力を見ないという選択なんです。

〇〇という外側の知覚に動揺するという選択は、
動揺の原因が未来・過去にあり、
未来への恐れや過去の誰かの悪事の「結果」として今動揺してるんだと見ようとする企てなんです。

 

今この瞬間、私が何よりも求めているのは平安です。

私は自分にとってのただひとつの目的である平安と再びつながるために、
「自分は傷つけられ、被害を受け、尊厳を奪われることが可能な脆くて無力で無価値な存在である」
という信念に疑問を呈し、
「外側の世界が平安であってほしいし、人の尊厳を踏みにじったり管理しようとする人たちにいなくなってほしい」という欲求を、私の自由意志にもとづいて手放します。

 

心の平安とは、今この瞬間、感謝の中で下すことのできる決断です。

「罪悪感」や「結果にたいする恐れ」が今ありえるように見えたのは、
「今感じていること」の原因は過去や未来にあるという信念に私がすがりつくと決めたからでした。

私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。


私は、今までこの世界にあると思ってきた私の動揺の原因が、
実はこれまで吟味されずに心のなかにあった信念と決断だったと認識できたことに感謝します。

私は私自身の平安のために、もう一度決断しました。


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外側に知覚している、〇〇の人たちや〇〇という事象が私の動揺の原因のように見えている。

が、この動揺はそれらの事象とはまったく関係なく、今ここですでに私によって選ばれているチョイスだったのか・・・!!!


自分が信じている信念。その結果を自分で今体験しているように見えるだけの話。


その今の決断によって感じている不幸(完全な幸せではない状態)を、外側の世界における未来への恐れや、誰かや何かが間違っているせいだ!というふうに指をさして、「そのせいで今不幸なんだ!」と言い続けている。


外側を指差しながら不幸(完全な幸せではない状態)の責任を押しつけようとしてるのを認識して、それをやめると、今ここにある不幸(完全な幸せではない状態)だけが残るように見える。

すると、
そもそもこの今感じている不幸(完全な幸せではない状態)は、そもそも本物(リアル)なのだろうか?
と問える可能性が生まれるように感じる。


この今感じている不幸(完全な幸せではない状態)の責任を、外側の何かに押しつけているあいだは、その不幸がそもそも本物なのかどうかを問う気にはなれない。

なぜなら「外側が改善すればこの不幸は取り除かれる(はず)」(この不幸が本物かどうかなんて知らん。とにかく外側を攻撃して変化させればどうにかなるはずなんや!)という方向性で生きているから。


外側の何かにこの不幸(完全な幸せではない状態)の責任を押しつけているのを認識して、それを撤回して、不幸(完全な幸せではない状態)だけがそこに残ったとき、初めて
「そもそもこのの不幸(完全な幸せではない状態)はなんなんだ?本物なのか?」を問えるようになれる気がする。

そのとき初めて、聖霊にそれが本物なのかどうか、たずねることができる。
そしてもしそうでないのだとしたら、それ以外の現実があることを教えてもらえるよう、助けを求めることができる。

自分にとっては未知の可能性を教えてもらえるように。

そこに心を開いていけますように。

どうか助けて下さい。

私が動揺するあらゆる事象を使って、聖霊が教えてくれる未知に心を開いていけますように。