インストゥルメントフォーピース 2020年11月11日

エス、兄弟のブログのおかげで、
あなた方への深い怒りという、今までより少し核心的なところに近づいたような感じがしました。

ありがとうございます。

 

 

順子さんの、奇跡を体験させてもらえた!とよろこんでいるブログをみたことについて考えるとき、

結局わしはこの競争社会に見捨てられとるんじゃなという怒り、聖霊や神への怒り、深い怒り、この競争して救いを勝ち取らんといけん世界に見捨てたという怒り、逆ギレ、
与えられる救いの不公平への怒り、
そしてその奥には自分は罪あるものじゃという罪悪感、無価値感があるのを感じる。
結局こういう競争して勝ち取らんといけん場所へ捨てられとるんじゃ、という。そういう罪悪感と無価値感。その表面を怒りで覆っている。

・・というのを感じる。
つまり怒り、罪悪感、無価値感を感じる。

ぬけがけして自分だけ救われようとする順子と、不公平に人を選んで、またはそれぞれの働きっぷりを判断して奇跡を与えたり与えなかったりして、かつこんな競争社会、努力してそこから抜け出さんといけんようなこの救いを競争して勝ち取らんといけん競争社会に私を見捨てた神・聖霊が責められるべき。

そして将来的にこの競争社会に負けてしまって
救いが得られん、永遠に救いが得られず捨てられっぱなし、負けっぱなし、勝てれん状態になることを恐れている。

このことは、
わしが天国からこの競争社会に打ち捨てられた罪ある無価値な存在であるということが正しいことを証明している。

 

「この事象のなかであなたが演じている役割を罪悪感なしに見る方法があるとしたら、その見方を学びたいですか???」

罪悪感なしに、わしがこの知覚のなかで演じとる役割をはっきり見る方法があるんであれば、それを学びたい。

 

 

「順子さんの、奇跡を体験させてもらえた!とよろこんでいるブログをみたことについて考えるとき、

怒り、罪悪感、無価値感を感じる。

ぬけがけして自分だけ救われようとする順子と、不公平に人を選んで、またはそれぞれの働きっぷりを判断して奇跡を与えたり与えなかったりして、かつこんな競争社会、努力してそこから抜け出さんといけんようなこの救いを競争して勝ち取らんといけん競争社会に私を見捨てた神・聖霊が責められるべきだし、
将来的にこの競争社会に負けてしまって
救いが得られん、永遠に救いが得られず捨てられっぱなし、負けっぱなし、勝てれん状態になることを恐れている。

これらのことは、
わしが天国からこの競争社会に打ち捨てられた罪ある無価値な存在であるということが正しいことを証明している。」

 

この知覚について、
わしのこの見方こそが正しいんじゃ!という言い張りをやめる気はある?

わしは今の感情を好まん。
じゃけえ他の見方があるんじゃったら、それを受け入れる準備ができとります。


わしは自分の見方が正しいんじゃと主張することよりも、
幸せであることを望む。

自我という歪んだ考え方・見方を通して、私は自分の動揺の原因とその解決方法が、自分の心の外側にあると知覚している。

この投影は非常にリアルに見える。

なぜならその目的は、心が内側を見るのを妨げることだから。


もしわしの動揺の原因とその解決用が心の外側にあるんじゃとしたら、わしは自分の心の状態について実に無力ということになる。

わしの投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、
わしが無力さを感じる理由であり、

選ばれて救われる順子や不公平な神・聖霊
あるいは自分が永遠に救いのレースに勝てずに打ち捨てられたままでいることが、
私の動揺の原因に見える理由なんです。

 

 

「順子さんの、奇跡を体験させてもらえた!とよろこんでいるブログをみたことについて考えるとき、

怒り、罪悪感、無価値感を感じる。

ぬけがけして自分だけ救われようとする順子と、不公平に人を選んで、またはそれぞれの働きっぷりを判断して奇跡を与えたり与えなかったりして、かつこんな競争社会、努力してそこから抜け出さんといけんようなこの救いを競争して勝ち取らんといけん競争社会に私を見捨てた神・聖霊が責められるべきだし、
将来的にこの競争社会に負けてしまって
救いが得られん、永遠に救いが得られず捨てられっぱなし、負けっぱなし、勝てれん状態になることを恐れている。」


これらすべては、
「わしが天国からこの競争社会に打ち捨てられた罪ある無価値な存在である」
という信念の結果としてあらわれたものです。

 


私が誰かや何かにたいして動揺するのは、
その誰かや何かが、私が気づきの外に追いやった信念を心に映し返しているときだけです。

私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(心のなかの決断として)見ることを妨げるためであり、
その代わりに自分の決断と信念を見ないために作り上げた
自己概念、他者、世界のイメージを保持し続けるためなのです。


この心のトリックは、罪悪感や恐れをどこか別の場所へ移し替えるように見えるかもしれませんが、
実際には動揺の感覚を維持し続けることになります。

自己概念や他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分を肉体と肉体の世界に制限し、
真のアイデンティティであるスピリチュアルな抽象性を否定することになります。

すべての動揺を完全に手放すための最初のステップとして、
私は自分の外側にあると思ってきたことを、
自分の心の内側に見ることを望みます。

 

「順子さんの、奇跡を体験させてもらえた!とよろこんでいるブログをみる」
ことについて動揺することは、


特別に選ばれて救われる順子や
不公平に救ったり救わなかったりして、そもそもそんな世界に私を打ち捨てた神・聖霊
あるいは自分が永遠に救いのレースに勝てずに打ち捨てられたままでいるという未来への恐れが、
私の罪悪感・恐れの原因であることにしようとする、
ひとつの企てにすぎません。


「順子さんの、奇跡を体験させてもらえた!とよろこんでいるブログをみる」ことが私の求めていることに反するとき、

それに動揺することには意味があって正当化できるもっともなことのように見えます。

私が求めていたのは、
「他の誰も神や聖霊から救われない(救われていない自分と同じように)」ことです。

私はまだ、
「わしが天国からこの競争社会に打ち捨てられた罪ある無価値な存在である」
と信じているので、

私が完全になり、幸せになり、平安になるためには、
「他の誰も神や聖霊から救われない(救われていない自分と同じように)(先に行かせるわけにはいかない)」ことが必要だと考えています。


この欠落の信念と、その結果必然的についてくる渇望は、
私にとって心の平安よりも重要なものだろうか???

 

この世界のすべてのものごとは、
ひとつになって私の最善のために働いています。

私が私の動揺の原因だと考えていたものは、
まったくそうではありませんでした。

外側の事象に動揺するという選択は、
その真の原因である、今この瞬間心のなかでくだされいてる
「分離・欠乏を信じる」とう決断と
その決断の力を見ないという選択なんです。


これは、今感じてることの原因が過去・未来にあり、
今感じていることはその結果なんだと
見ようとする企てなんです。

 

今この瞬間、
私が何にも増して求めているのは平安です。

私は自分にとってのただ一つの目的である平安に
再びつながるために、

「わしが天国からこの競争社会に打ち捨てられた罪ある無価値な存在である」
という信念に疑問を呈し、

「他の誰も神や聖霊から救われない(救われていない自分と同じように)(先に行かせるわけにはいかない)」
という欲求を、
わしの自由意志にもとづいて手放します。


心の平安とは、
今この瞬間感謝のなかで下すことのできる決断です。

罪悪感や結果への恐れが今可能なように思えたのは、
私が
「今この瞬間の決断」には力がなく、
過去や未来に原因があるんだという信念に
すがりつこうと決めたからでした。

私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、
解放されていて無垢である「今」に心を開きます。

 

私は、
今までこの世界のなかにあると思っていた動揺の原因が、
実はこころのなかの吟味されることのなかった
決断と信念にあったのだ、ということを認識できたことに感謝します。

私は私自身の平安のために、もう一度決断しました。

 


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今この瞬間の自分自身の決断の力を思い出せますように。

それをみないようにするために
私が演じているすべてを罪悪感なしにはっきりとみたいです。

どうかこのからくりがほどけるように、助けて下さい。

ありがとうございます。