インストゥルメントフォーピース 2020年11月17日 無価値な世界に生きてる無価値な俺たち

コワーキングスペースの複数の男が
やる気満々で仕事やってます風仕事できる風に見せてるように知覚されるとき、
イライラ、怒り、攻撃心を感じます。

なぜなら、表面的なものを追求してそれを外側にアピールしようとしているアホな男たちが責められるべきであるし、
未来に、自分がこの無価値なものたちに侵食されることが起こるのを恐れているからです。

これらのことは、
私が無価値なものに囲まれていて、それらに脅かされていて、傷つけられる無価値な存在だということについて、正しいことを証明しています。


私は今の感情を望みません。
だから、私が知覚していることが真実ではない可能性を考える準備ができています。

癒やしのプロセスの一部として、私はこの動揺(に私が与えた意味)を超えて見ること、
そして心の内側を見ることを意志します。

 

私はこの事象のなかで自分が演じている役割を、
罪悪感なしに見る方法があることを学びたい。

コワーキングスペースの複数の男が
やる気満々で仕事やってます風仕事できる風に見せているように知覚されるとき、
イライラ、怒り、攻撃心を感じ、

表面的なものを追求してそれを外側にアピールしようとしているアホな男たちが責められるべきであるし、
未来に、自分がこの無価値なものたちに侵食されることが起こるのを恐れています。」

この私が知覚している事象のなかで、
自分自身が演じている役割を罪悪感なしに見る方法があるのであれば、それを学びたい。

私はこの事象のなかでどんな役割を演じてるんでしょうか・・・?????

 

 

私は以下の知覚のなかで、自分がただしくありたいという望みを手放します。

コワーキングスペースの複数の男が
やる気満々で仕事やってます風仕事できる風に見せているように知覚されるとき、
イライラ、怒り、攻撃心を感じ、

表面的なものを追求してそれを外側にアピールしようとしているアホな男たちが責められるべきであるし、
未来に、自分がこの無価値なものたちに侵食されることが起こるのを恐れています。

これらのことは、
私が無価値なものに囲まれていて、それらに脅かされていて、傷つけられる無価値な存在だということについて、正しいことを証明しています。」


私はこの自分の見方が正しいのだという言い張りを手放したい。

そしてその代わりに幸せであることを望みます。

自我という歪んだ考え方・見方を通して、
私は自分の動揺の原因とその解決方法が、心の外側にあると知覚している。

この投影は、非常にリアルに見える。
なぜなら、その目的は、心が内側を見るのを妨げることだからです。

 


もし私の動揺・イライラ・攻撃心の原因が心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態について実に無力ということになります。


私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、私が無力さを感じる理由であり、
表面的なものを追求してそれを外側にアピールしようとしているアホな男たち
または、
自分がこの無価値なものたちに侵食されることが起こることが
私の動揺の原因に見える理由です。

 


コワーキングスペースの複数の男が
やる気満々で仕事やってます風仕事できる風に見せているように知覚されるとき、
イライラ、怒り、攻撃心を感じ、

表面的なものを追求してそれを外側にアピールしようとしているアホな男たちが責められるべきであるし、
未来に、自分がこの無価値なものたちに侵食されることが起こるのを恐れています。」

これらすべては、
私が無価値なものに囲まれていて、脅かされていて、傷つけられる無価値な存在だという信念の結果として現れたものです。

 


私が誰かや何かにたいして動揺するのは、
彼らや出来事が、私が見ないように意識の外に追いやろうとしている信念を
心に映し返しているときだけです。

私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(心の中の決断として)見ることを妨げるためであり、
その代わりに自分の信念と決断を見ないようにするために作り上げた
自己概念、他者、世界のイメージを維持しつづけるためなのです。


この心のトリックが、罪悪感や恐れ(の責任)をどこかに移し替えるように見えたとしても、
実際には動揺の感覚を維持し続けることになる。

自分の信念と決断を見ないために作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分を肉体と肉体の世界に制限し、
真のアイデンティティであるスピリチュアルな抽象性を否定することになる。

あらゆる動揺を手放す最初のステップとして、
自分の外側にあると思っていたものを自分の心の内側に見ることを、私は望む。


コワーキングスペースの複数の男が
やる気満々で仕事やってます風仕事できる風に見せているように知覚される」
に動揺することは、

「表面的なものを追求してそれを外側にアピールしようとしているアホな男たち」や、未来の考えである
「自分がこの無価値なものたちに侵食されること」への恐れが
私の罪悪感、恐れの原因であることにしようとする、ひとつの企てにすぎません。


コワーキングスペースの複数の男が
やる気満々で仕事やってます風仕事できる風に見せているように知覚される」ことが
私が求めていることに反するとき、
この知覚に動揺することは意味があって正当化できるように思える。

私が求めている(いた)のは、
自分のまわりにバカみたいな表面的なやつらがいないことです。


私はまだ、自分が無価値なものに囲まれていて、脅かされていて、傷つけられる無価値な存在だと信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
自分のまわりにバカみたいな表面的なやつらがいないことが必要だと考えています。


この不足・欠乏の信念と、そこから必然的に生じる必要性・渇望を持ち続けることは、
私にとって心の平安よりも重要なことだろうか????


いいえ。

私はこの不足と欠乏と無価値の信念を手放して、この渇望も手放して、周りにいる兄弟の真の姿を見せてもらえるようになりたい。

 


この世界のすべてのものごとは、一つとなって私の最善のために働いてくれています。

私が動揺の原因だと考えたものはまったくそうではなかった。

この知覚に動揺するという選択は、
その真の原因である、今この瞬間くだされている「分離と無価値さを信じる」という決断と、その決断の力を見ないという選択なんです。

これは、今感じていることの原因が過去・未来にあり、
今はその結果だということにして、今この瞬間の決断の力をまったく無視しようという企てなのです。


今この瞬間、私がもっとも求めているのは平安です。

私は自分にとってのただ一つの目的である平安と再びつながるために、
「自分が無価値なものに囲まれていて、それらに脅かされ傷つけられる無価値な存在だ」
という信念に疑問を呈し、
「自分のまわりにバカみたいな表面的なやつらがいないことが必要だ」という欲求を、私の自由意志にもとづいて手放します。

 

心の平安は、私が今この瞬間、感謝のなかで下すことのできる決断です。

罪悪感や、結果への恐れがあり得るように見えたのは、
私が過去や未来に今の原因があるという信念にすがりつくと決めたからでした。

私は自分が過去や未来に与えた意味を手放し、
解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。


私は今までこの世界にあると思ってきた動揺の原因が、
実は私自身の心の中の吟味されてこなかった決断と信念だったと認識できたことに感謝します。

私は私自身の心の平安のために、もう一度決断しました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


自分が無価値な世界に生きている無価値な存在で、これ以上無価値な存在に傷つけられたり削られたくないから、無価値なやつらにかかずらわないで一人でいたほうがまし。。そういうふうに生きてきたんだな。

今回のはコワーキングスペースでの人たちにたいしてだったけど、
同じようなパターンは思い返すとたびたびあった。


この信念を手放して、自分と同じように無価値な世界に生きる無価値なやつらと思ってきた兄弟たちを、聖霊の目で見せてもらいたい。

エス、どうか私がこの全員が無価値だという信念を手放して、
わたしたちの真の姿がどんなものなのか、わたしたちが誰なのか、
あなたに教えてもらうことを受け入れられますように。

どうか助けて下さい。