前の記事をふまえたインストゥルメントフォーピース 2020年11月21日

エス
前の記事で書いた内容などをふまえ、できる限り心に耳を傾けながらインストゥルメントフォーピースをやってみました。

よろしくお願いします。

 

ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき、
無価値感、何者にもなれてない無価値感、無存在感を感じる。

なぜなら私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や、私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主こそが責められるべきで、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れているからです。

これは私が
優しく世話をされ存在を認めてもらう必要のある、限界があって弱く欠損したものとして確かに実在している「何者か」で、しかも世話され認められる価値はない無価値な存在だということについて正しいことを証明している。

 

 

私は以下の事象のなかで自分が演じてる役割を罪悪感なしに見ることを学びたいだろうか?

「ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき、
無価値感、何者にもなれてない無価値感、無存在感を感じ、
私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や、私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主こそが責められるべきで、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れています。」

この事象の中で自分が演じてる役割を罪悪感なしに見ることを学びたい。

 


私は以下の知覚について、自分が正しくありたいという望みを手放す気があるか?

「ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき、
無価値感、何者にもなれてない無価値感、無存在感を感じ、
私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や、私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主こそが責められるべきで、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れています。

これらのことは、私が
優しく世話をされ存在を認めてもらう必要のある限界があって弱く欠損したものとして実在している「何者か」で、しかも世話され認められる価値はない無価値な存在だということが正しいことを証明している。」

 

 

私はこの感覚を好むだろうか?望むだろうか?望んでいるだろうか?

私はこの感覚を望まない。

なので私はこの知覚が正しくない可能性を受け入れる準備ができている。

癒やしのプロセスを受け入れるため、私はこの動揺に私が与えた意味を超えてみること、
そしてこの知覚を必要なものとして映し出している心の内側を見ることを意志します。

 

「この知覚を必要なものとして映し出している心の内側」


そう、私の心の内側が、

この知覚↓

「ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき、
無価値感、何者にもなれてない無価値感、無存在感を感じ、
私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や、私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主こそが責められるべきで、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れています。」

を、必要なものとして映し出してるんだ。


私は
私の心の内側に何らかの決断があって、
その決断から、こういう知覚を映し出す必要が生じていることを受け入れます。

この知覚は、その決断から来てるのであって、真実というわけではありません。

私は自分自身のある決断から来ているこの知覚が正しいと言い張るのをやめ、
そのかわりに幸せであることを望みます。

そして、そのためにはこの知覚を必要なものとして映し出すことになった、
元々の私自身の決断を翻すことにもやぶさかではありません。

 

自我という歪んだ考え方・見方によって、
私は心の動揺の原因とその解決方法が、心の外側、この知覚のなかにあると期待しています。

この投影は非常にリアルに見えています。

なぜならその目的は、心が内側を見るのを妨げることだからです。

 

もしも動揺の原因が心の外側にあるのだとしたら、
私は心の状態について実に無力ということになる。


私が投影しているということが、私が無力さを感じている理由であり、

私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や
私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れていることが、

私の動揺の原因に見える理由なんです。

 


「ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき、
無価値感、何者にもなれてない無価値感、無存在感を感じ、
私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や、私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主こそが責められるべきで、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れています。」

これらすべては、
「私は優しく世話をされ存在を認めてもらう必要のある、限界があって弱く欠損した何者かで、しかも世話され認められる価値はない無価値な存在なのだ」
という信念の結果としてあらわれたものです。


この信念を信じてるので、↓こういうことを知覚せざるをえないんです。

「ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき、
無価値感、何者にもなれてない無価値感、無存在感を感じ、
私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や、私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主こそが責められるべきで、
未来に完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れています。」


そしてこの信念↓
「私は優しく世話をされ存在を認めてもらう必要のある、限界があって弱く欠損した何者かで、しかも世話され認められる価値はない無価値な存在なのだ」
は、

私の決断である
「神が創造したひとりにたいして愛の欠如した反応をする」という決断と、
その決断にたいする罪の知覚、それにひもづく攻撃されることへの恐れから防衛の必要を感じていること、
これらから来ています。(奇跡講座5章セクション7)


私が外側の何かに動揺するのは、
その何かが、
私の心の内側に見ないようにしてきた↑この「神の創造したひとりにたいして愛のない反応をする」という決断と罪の知覚と攻撃を予期した防衛反応、
そこからうまれた信念を、映し返しているときだけです。


私がこの世界の何かを恐れたり責めたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(つまり自分の心の決断と、聖霊に自分のために決断しなおしてもらうこと)見ることを妨げるためであり、

そのかわりに心の内側を見ないために作り上げた
自己概念、他者、世界、世界の作り主のイメージを維持し続けるためなんです。


この心のトリックは、罪悪感と恐れの原因や責任を
自分以外のどこかに移し替えるように見えますが、
それによって逆に動揺が維持され続けることになります。

動揺の真の原因が見えなくなるからです。

 

心の内側を見ないために作り上げた自己概念、他者、世界、世界の作り主のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分を心の外側の肉体と肉体の世界に縛り付け、
真のアイデンティティであるスピリチュアルな抽象性を否定することになります。


すべてのあらゆる動揺を手放す最初のステップとして、
心の外側にあると思ってきた私のあらゆる動揺の原因を、
自分の心の内側に見ることを私は望みます。

 

「ナンパしようとして女の子の前に立つことを考えるとき」に動揺することは、

私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や
私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主、

または未来の考えである
完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こるのを恐れていることが、

私の罪悪感と恐れの原因であるとしようとする、ひとつの企てにすぎません。


罪悪感と恐れの真の原因は、
「神の創造されたひとりにたいして愛のない反応をする」という
私自身の決断とその決断への罪の知覚、それに続く攻撃を予期した防衛反応等・・だったのですが。

 


「ナンパしようとして女の子の前に立つこと」が
私が求めていることに反するとき、
それに動揺することは理にかなっていて正当化できるように見えます。

私が求め、期待していた(いる)のは、

こちらから働きかけなくても、
相手から優しく気遣われ存在を認められ大事にしてもらえることです。


私はまだ、
「私は優しく世話をされ存在を認めてもらう必要のある、限界があって弱く欠損した何者かで、しかも世話され認められる価値はない無価値な存在なのだ」
ということを信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
「こちらから働きかけなくても、
相手から優しく気遣われ存在を認められ大事にしてもらえること」
が必要だと考えています。


この欠乏・欠損の信念と、そこから必然的に生まれる欲求・渇望は、
私にとって心の平安より重要だろうか???


この欠乏・欠損の信念と渇望を持ち続けている限り、
心の平安なんてありえないのでは?

どうだろう?

この欠乏・欠損の信念と渇望を持ったまま、
心が永遠のやすらぎを感じることがあるだろうか?

いや、どうもこれは無理っぽい。

じゃあ心の平安のためには、この欠乏・欠損の信念と渇望を選ぶのをやめるしかないようだ。

 (欠乏・欠損の信念を撤回したくない!という声があるのも感じる)


この欠乏・欠損の信念は、
私の決断である、
「神の創造されたひとりにたいして愛のない反応をする」という決断と、その決断への罪の知覚、それに続く攻撃を予期した防衛反応から来ている。

じゃあこの決断を撤回して、
別の決断をするしかないってことじゃん。平安をえるためには。

聖霊に、わたしのために別の決断をしてもらうしかない。

私はどう決断しなおせばいいのかわからなくなってしまってるから。


私は
「神の創造されたひとりにたいして愛のない反応をする」という決断を撤回して、
もう一度決断しなおしたいです。

聖霊、どうか私のために、私にかわって、決断してください。

 


この世界のものごとは、ひとつになって私の最善のために働いてくれています。
私が自分の動揺の原因だと思ってきたことは、まったくそうではありませんでした。

外側の知覚に動揺する、という選択は、
動揺の真の原因である「神の創造されたひとりにたいして愛のない反応をする」という決断と、その決断の知覚への罪の知覚、それに続く攻撃を予期した防衛反応、
といった動揺の真の原因をみないという選択なんです。


これは、原因が「過去」や「未来」にあり、現在はその結果だということにしようとする企てなんです。


今この瞬間、わたしが求めているのは完全な心の平安、
「恐れからは指一本動かさない」といえるだけの完全な心の平安です。

私は自分にとってのただひとつの目的である、
「恐れからは指一本動かさない」といえる完全な心の平安とふたたびつながるため、

「私は優しく世話をされ存在を認めてもらう必要のある、限界があって弱く欠損した何者かで、しかも世話され認められる価値はない無価値な存在なのだ」

という信念に疑問を呈し、

「こちらから働きかけなくても、
相手から優しく気遣われ存在を認められ大事にしてもらえること」が必要なんだ!
という欲求を、
自発的に手放します。

 


「恐れからは指一本動かさない」といえる完全な心の平安は、
今この瞬間、感謝のなかで下すことのできる決断です。


罪悪感や結果への恐れが消えずに継続してありえるように思えたのは、

その真の原因である
「神の創造されたひとりにたいして愛のない反応をする」という決断を隠蔽・維持し、

原因が心の外側の過去や未来にあるんだという信念にすがりつくことに決めたからでした。


私は自分が外側の過去・未来に与えた意味である、

「私を受け入れて優しく声をかけてくれない相手や
私を弱く欠損したものとして定めたこの世界の作り主が責められるべきだ」

「未来の考えである
完全に無視、バカにされて存在を認めてもらえず、女にとって価値のない無価値な罪ある存在だとバレることが起こることへの恐れ」

という過去・未来への意味づけを手放し、

解放されていて無垢である「今」にたいして心を開き、
この「今」のなかで聖霊にわたしのために決断をし直してもらいたいです。


私は今までこの世界のなかにあると思ってきた動揺の原因が、
実は心のなかに隠蔽されていた決断と、そこからきた信念にあったと認識できたことに感謝します。

私は私自身の平安のために、もう一度決断しなおします。

「神の創造されたひとりにたいして愛のない反応をする」という私の決断を撤回し、
聖霊に私の幸せのために決断してもらうことを選択します。

アーメン。