エス
「恐れから指一本動かさない」ことについての動画を順子さんがブログで紹介してくれていました。

順子さん、ありがとうございます。

その動画と、もう1本おすすめで出てきた動画、
今とても響くものがあった。

 

以下メモ書き。
(メモだけと思ったら途中からインストゥルメントフォーピースが始まりました)

 

 

youtu.be

 

 

youtu.be


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デイヴィッド動画「神秘主義と奇跡」

コースは完全に受け入れられるか、完全に無視されるかどっちかしかない。
ダーツのように中心に近づけば近づくほどポイントが高い、といったものじゃない。
0か100か。99.9%でも成功ではない。

コースの教えや真理についての教えを、自分が信じている仕事やお金、人間関係のなかにもってきて、それらを良くしようとしてもうまくいきません。

そのことは100%保証します。(!!!)

この世界の中にはなにもない。

この世界という幻想に、真理をもってきてそこに加えたりどうにかしたりすることはできない。

神の子は一度も地球上に顕現したことはない。(!!!!)

「心」があって、「この世界のものごと」もある、わけではない。

聖なる心だけがある。

スピリットがリアル。


決断、選択。
ラクルワーカーであることを引き受けるという選択、決断が鍵となる。

(愛さない(=愛・神以上の何かを求める)という決断を撤回して、
聖霊に決断しなおしてもらうという選択、決断?

自分の下した「愛さないという決断」、その決断に罪を知覚し、攻撃されることを予期して防衛の必要を感じ、そこからこの世界のあらゆる事象を映し出している。それを認めて、決断のところに戻って、聖霊に決断しなおしてもらうことを選択したい。)


「心が完全にそれを選択するまでは、苦闘があります」。

素晴らしいことに、心が一旦決まれば、
目覚めへのサポートのために必要なすべてがやってきます。


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デイヴィッド動画「意欲と覚悟」

毎日の意志・意欲。
「主よ、私はここにいます」
「私は真に助けとなるためだけにここにいます」
「私は意志します」
奇跡を、ハートを開くことを、聖霊をフォローすることを、神の計画に仕えることを。

その他なんでも、あなたが捧げることができるものを捧げるのです。

そうやって捧げれば捧げるほど、「強力な意欲」に近づくのです。

毎日はこのためにある。
自己概念をimprove(改善・発展)するためにあるのではない。。。
↑このアイデアが心のなかの主要な場所を占めてた。。。

自己概念をimproveしなきゃ、というアイデアが心の主要な場所を占めてるので、
なかなか毎日をこのように捧げきれないように感じる・・。

でも「自己概念をimproveしなきゃ」というアイデアを持ち続けるのが完全に幸せかというと、まったくもってそんなことはない。

 

「毎日の生活のなかで、仕事の能力アップや人間関係構築(ナンバ含む)などをとおして、私は自己概念をimproveする必要がある」と考える時、
怒り、無価値感、やるせなさ、悲しみ、無力感を感じる。

なぜならこのような「impoveしないと価値がないもの」に自分というものを定めたこの世界の作り主と無価値な自分が責められるべきで、
未来にうまくimproveすることができずにずっとこのまま無価値でい続けなければならなくなることを恐れているからです。

これらのことは、
私がimproveなしでは価値のないものと作り主に定められた無力な被害者だということが正しいことを証明しています。」


私は今の感じを好まない。
なのでこの知覚が本当ではないという可能性を受け入れる準備ができています。
癒やしのプロセスの一部として、
私がこの動揺に与えた意味を超えてみること、
そしてこのような事象を映し出すことが必要だとしている、私の心の内側を見ることを意志します。


私はこの事象について自分が演じている役割を、罪悪感なしに見る方法について学びたい。

そしてこの知覚について自分の見方が正しいんだと主張したい欲求を手放したい。


「毎日の生活のなかで、仕事の能力アップや人間関係構築(ナンバ含む)などをとおして、私は自己概念をimproveする必要がある」と考える時、
怒り、無価値感、やるせなさ、悲しみ、無力感を感じ、

このような「impoveしないと価値がないもの」に自分というものを定めたこの世界の作り主と無価値な自分が責められるべきで、
未来にうまくimproveすることができずにずっとこのまま無価値でい続けなければならなくなることを恐れています。」

これらすべては、
「私がimproveなしでは価値のないものと作り主に定められた無力な被害者」だという信念の結果として現れたものです。


私はこの知覚が正しいんだと言いはるかわりに、幸せを望みます。

自我という歪んだ考え方、見方をとおして、
私の動揺の原因と解決方法が心の外側にあると知覚している。

この投影は非常にリアルに見える。

その目的は、心が内側をみるのを妨げることだから。

 

もし私の動揺の原因と解決策がこころの外側にあるのだとしたら(つまり、この肉体の自己概念がうまくimproveできれば幸せになれる、できなければ不幸)、私は心の状態について実に無力ということになります。

私の投影(内側にみたくないもの、つまり自分が愛さないという決断をして、その結果罪悪感と攻撃されることへの恐れを感じているんだけど、そういう動揺の原因が、自分の決断ではなく外側の何かにあるとみようとしている)が、

私が無力さを感じる理由であり、
「impoveしないと価値がないもの」に自分というものを定めたこの世界の作り主と無価値な自分、
未来にうまくimproveすることができずにずっとこのまま無価値でい続けなければならなくなることへの恐れが
私の動揺の原因に見える理由なんです。


私が何かにたいして動揺するのは、
私が見ないようにしてきた信念を、その何かが心に映し返しているときだけです。

私が「自己概念をimproveしていかないといけないという考えや状況」に動揺を感じるとき、それは動揺の真の原因と解決方法をあるがままに(心の中の決断として)見ることを妨げるためであり、
その代わりに心の中の決断と信念をみないために作り出した自己概念、他者、世界、世界の作り主のイメージを維持するためなんです。


私はまだ
「私はimproveなしでは価値のないものと作り主に定められた無力な被害者だ」と信じているので、
私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
「私が自己概念をimproveして、そのimproveされた自己概念を人々に称賛され続けること」が必要だと考えています。

この不足・欠落の信念と、そこから生じる渇望を持ち続けることは、私にとってこころの平安よりも重要だろうか??

この信念に疑問を呈し、自発的にこの渇望・必要性を手放す気があるだろうか?


私にとっては心の平安がいちばんたいせつです。

そのため、
「私はimproveなしでは価値のないものと作り主に定められた無力な被害者だ」という信念に疑問を呈し、

「私が自己概念をimproveして、そのimproveされた自己概念を人々に称賛され続けること」が必要だ
という渇望を自発的に手放します。

そのかわりに平安を望みます。

「愛さないことにする」「神とその創造にたいして愛のない反応をする」という私の決断と、その決断から罪悪感、無価値感などが生じていることを認識し、その決断を撤回して聖霊に私にかわって決断してもらうことを選択します。

 

私が、
聖霊に意欲を捧げるよりも
自己概念のimproveに時間を使うことに気を取られていたのは、

自己概念のimproveこそが私のなかの無価値感・動揺の解決策だと信じてきたからでした。

私はこの誤った原因と結果の信念を手放し、
無価値感・動揺・罪悪感の真の原因になっている「愛さないという決断」「神とその創造にたいして愛のない反応をするという決断」を認識することを望みます。

そしてその上で、聖霊に決断し直してもらうことを望みます。

ありがとうございます。