動揺を歓迎する
イエスさん、よろしくお願いします。
最近の勉強会で何人かの人にのりこさんが
「マイティコンパニオンのなかで何か感じる人がいる?」(というニュアンスのこと)と聞いていたように知覚していました。
自分はどうだろうと内側にたずねると、
やっぱりしょうこさんが勉強会映像の中でしゃべってるのを見たりするときに内側がモヤモヤするのを感じる。
そこに注目していくとけっこう苦しくなってきたので、まずはこの感じてることをはっきり感じさせてあげたいと思って、インストゥルメントフォーピースをやろうと思って、やり始めた。
「しょうこがしゃべっているのをみるとき、いらいら、怒り・・」
と、自分が何を感じてるんだろうと感じながら書き始めたそのとき・・・
なんかインストゥルメントフォーピースをやり続ける前にこれを言わせろ!っていうものが内側から出てきた。
感覚的なものだったけど、言葉を与えるとすると、
『しょうこを自分と分離していて、どっちかが勝ったり負けたりといったことが可能な分離した何かとしてもう見たくないんじゃ!!』
『どんなに今動揺があろうがなかろうが、関係ねえ!
「動揺のない自分」になるのが目的なんじゃねえ!
「こういう自分がおって、こういう相手がおる」とかを超えた「ひとつであること」が究極の目的なんじゃ!』
『じゃけえ私たちが本当に、真にひとつなんじゃと知りたい、教えてほしい』
こういう感じじゃった。
自分では予想もしなかった、思いもよらなかった感覚。
たぶんこの感覚が上がってくる直前、インストゥルメントフォーピースをやろうとしながら、
『このプロセスをとおして「動揺のない自分になりたい」(=分離は維持したまま)』
ということをやろうとしとったんじゃと思う。
そんな自分のあり方に対して
そうじゃないんで!!
分離を維持したまま動揺しない自分になることが目的じゃないんで!!
という声が上がってきたんじゃと感じた。
真にひとつであることを知りたい、というのは言葉としてはこれまでも聞いてきたかもしれんけど、
こういうふうに自分でも思っても見なかったところから実感をともなった感覚として上がってきたのは初めてで、新鮮で、
本当にこの祈りを受け入れるのは怖いような感じがした。
でも同時に、
平安はこっちにしかありえない、
というのも感じられた。
あらゆること、あらゆる問題、
これらは本当に「わたしの心」のなかだけの問題じゃということ、
外側の誰かが問題では決してないんじゃということ、
そのことを自分自身に心底受け入れるしか平安への道はないんじゃということ、
そういうことに覚悟を決めるのを求められとるように感じた。
じゃけえこの内側から突き上げてきた感覚はありがたいもんじゃと感じたし、
これを正面に置く必要があると感じた。
ほいで自分の心の中にあるあらゆる人、自分の心のなかにある全宇宙全世界、自分の心の中の具体的な対象じゃったしょうこさんに向けても、この今感じとる覚悟を発信する必要があるように感じた。
(与える先は自分自身じゃっていう、のりこさんがよく言ってくれている言葉を思い出したし、ちょうど最近のワークブックレッスンじゃった「私が与えるものはすべて、私自身に与えられる」【レッスン126】を思い出しとった。)
そういうわけで、
自分でもこんなことをやるとはまったく想像もしてなかったしやるつもりもなかった、
この一連のことについてしょうこさんにメッセージを送る、ということをやることになった。
そのあとしばらくしてしょうこさんからきた返信を読んだとき、
やっぱりしょうこということになっとるキャラクターは自分のなかに大きな動揺を引き起こすトリガーという設定なんじゃの、と感じざるをえんかったけど、
あらゆる動揺を浮上させることが今自分の心にとって本当にたすけになると感じとる。
動揺はあるけど、
同時にこの動揺が浮上して触れられることに
深いうれしさや力強さのようなものが感じられてきた。
このようにあらゆる動揺を深く歓迎して、
それをとおして誤った決断と信念の訂正をお願いしていきたい!
と強く思っております。
イエスさん、どうぞよろしくお願いいたします。