インストゥルメントフォーピース 2020年11月27日 マウントの取り合いを運命づけられている

しょうこが上から目線でマウントを取ってくる、
お前はまだそんなことをしとんのか、
私は違うで、
うわべだけのお前とは違って真実を受け入れる勇気があるんやで、
もうそこは通り過ぎたで、
私のほうが先に進んどるで、
ああ、お前のその様子はあのころの私みたいやなあ、
今まだそこにおるんやなあ、
まあでもこの辺は進歩しとるところもあるやんけ、
とマウントを取ってきてると知覚されることについて考えるとき、

悲しみ、痛々しさを感じる。

なぜなら分離を強化し、
限られた賜物を奪って上に立とうとするしょうこ、
その争いに敗れる俺、
私らをこのような不足と奪い合いの世界に置き去りにしたこの世界の作り主
が責められるべきで、

未来に、
この奪い合いに敗れること、
その結果絶望と無のなかに放置されること、
永遠にこの不足と奪い合いの地獄に放置されるのを恐れているからです。

これらのことは、私が
限られた賜物を奪い合う必要のある限界のある肉体であり、
別の肉体によって幸せを奪われる存在なので、
マウントを取り合いし続けることを運命づけられている
ということについて正しいことを証明しています。

 

私は今の感じを好まない。

なのでこの知覚が本当ではない可能性を受け入れる準備ができています。

癒やしのプロセスの一部として、
私はこの動揺に自分が与えた意味を超えてみること、
そしてこのような映像を映し出すことを必要としている
自分の心の内側を見ることを意志します。

 

私は以下の事象のなかで自分が演じている役割を、罪悪感なしに見る方法を学びたいだろうか?

「しょうこが上から目線でマウントを取ってくる、
お前はまだそんなことをしとんのか、
私は違うで、
うわべだけのお前とは違って真実を受け入れる勇気があるんやで、
もうそこは通り過ぎたで、
私のほうが先に進んどるで、
ああ、お前のその様子はあのころの私みたいやなあ、
今まだそこにおるんやなあ、
まあでもこの辺は進歩しとるところもあるやんけ、
とマウントを取ってきてると知覚されることについて考えるとき、

悲しみ、痛々しさを感じる。

なぜなら分離を強化し、
限られた賜物を奪って上に立とうとするしょうこ、
その争いに敗れる俺、
私らをこのような不足と奪い合いの世界に置き去りにしたこの世界の作り主
が責められるべきで、

未来に、
この奪い合いに敗れること、
その結果絶望と無のなかに放置されること、
永遠にこの不足と奪い合いの地獄に放置されるのを恐れているからです。」

ああ、私は自分がこの事象のなかで演じている役割を、罪悪感なしにハッキリと見たい。

 

私は以下の知覚について、自分が正しくありたいという欲求を手放してもいいだろうか?

「しょうこが上から目線でマウントを取ってくる、
お前はまだそんなことをしとんのか、
私は違うで、
うわべだけのお前とは違って真実を受け入れる勇気があるんやで、
もうそこは通り過ぎたで、
私のほうが先に進んどるで、
ああ、お前のその様子はあのころの私みたいやなあ、
今まだそこにおるんやなあ、
まあでもこの辺は進歩しとるところもあるやんけ、
とマウントを取ってきてると知覚されることについて考えるとき、

悲しみ、痛々しさを感じる。

なぜなら分離を強化し、
限られた賜物を奪って上に立とうとするしょうこ、
その争いに敗れる俺、
私らをこのような不足と奪い合いの世界に置き去りにしたこの世界の作り主
が責められるべきで、

未来に、
この奪い合いに敗れること、
その結果絶望と無のなかに放置されること、
永遠にこの不足と奪い合いの地獄に放置されるのを恐れているからです。

これらのことは、私が
限られた賜物を奪い合う必要のある限界のある肉体であり、
別の肉体によって幸せを奪われる存在なので、
マウントを取り合いし続けることを運命づけられている、
ということについて正しいことを証明しています。」


私はこの知覚について、自分が正しくありたいという欲求を手放す。

そのかわりに私は幸せであることを望みます。

自我という歪んだ考え方・見方を通して、
私は自分の動揺の原因とその解決方法が、心の外側にあると知覚しています。

この投影は非常にリアルに見える。

なぜならその目的は、心が内側を見るのを妨げることだから。

 

もし私の動揺の原因と解決策が心の外側、しょうこがどのように知覚されるかという心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態について実に無力ということになります。

私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、
私が無力さを感じる理由であり、

分離を強化し限られた賜物を奪って上に立とうとするしょうこ、
その争いに敗れる俺、
私らをこのような不足と奪い合いの世界に置き去りにしたこの世界の作り主

や、

未来に
この奪い合いに敗れること、
その結果絶望と無のなかに放置されること、
永遠にこの不足と奪い合いの地獄に放置されるのを恐れていることが、

私の動揺の原因に見える理由なんです。

 

「しょうこが上から目線でマウントを取ってくる、
お前はまだそんなことをしとんのか、
私は違うで、
うわべだけのお前とは違って真実を受け入れる勇気があるんやで、
もうそこは通り過ぎたで、
私のほうが先に進んどるで、
ああ、お前のその様子はあのころの私みたいやなあ、
今まだそこにおるんやなあ、
まあでもこの辺は進歩しとるところもあるやんけ、
とマウントを取ってきてると知覚されることについて考えるとき、

悲しみ、痛々しさを感じる。

なぜなら分離を強化し、
限られた賜物を奪って上に立とうとするしょうこ、
その争いに敗れる俺、
私らをこのような不足と奪い合いの世界に置き去りにしたこの世界の作り主
が責められるべきで、

未来に、
この奪い合いに敗れること、
その結果絶望と無のなかに放置されること、
永遠にこの不足と奪い合いの地獄に放置されるのを恐れているからです。」

これらすべては、
「私は
限られた賜物を奪い合う必要のある限界のある肉体であり、
別の肉体によって幸せを奪われる存在なので、
マウントを取り合いし続けることを運命づけられている」
という信念の結果として現れたものです。

 

私が誰かや何かにたいして動揺するのは、
私が内側に見ないようにしよう、意識のなかから追い出そうとした信念を、
その誰かや何かが心に映し返しているときだけです。


私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(つまり心のなかの決断として)見ることを妨げるためであり、
その代わりに内側を見ないで済むように作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを維持し続けるためなのです。


この心のトリックが、罪悪感や恐れの原因や責任をどこか別の場所に移し替えるように見えたとしても、
逆に動揺の感覚を維持しつづけることになります。

心の内側を見ないようにするために作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分を「心の外側」である肉体と肉体の世界に縛り付け、
本来の自分自身であるスピリチュアルな抽象性を否定することになります。

すべてのあらゆる動揺を手放す最初のステップとして、
自分の外側にあると思ってきたものを、
自分の心の中に見ることを、私は望みます。


「しょうこが上から目線でマウントを取ってくる、
お前はまだそんなことをしとんのか、
私は違うで、
うわべだけのお前とは違って真実を受け入れる勇気があるんやで、
もうそこは通り過ぎたで、
私のほうが先に進んどるで、
ああ、お前のその様子はあのころの私みたいやなあ、
今まだそこにおるんやなあ、
まあでもこの辺は進歩しとるところもあるやんけ、
とマウントを取ってきてると知覚されること」 

について動揺することは、

分離を強化し、
限られた賜物を奪って上に立とうとするしょうこ、
その争いに敗れる俺、
私らをこのような不足と奪い合いの世界に置き去りにしたこの世界の作り主

や、

未来に、
この奪い合いに敗れること、
その結果絶望と無のなかに放置されること、
永遠にこの不足と奪い合いの地獄に放置されるのを恐れていることが、

私の罪悪感、恐れの原因であることにしようとする、
ひとつの企てにすぎません。

 


「しょうこが上から目線でマウントを取ってくる、
お前はまだそんなことをしとんのか、
私は違うで、
うわべだけのお前とは違って真実を受け入れる勇気があるんやで、
もうそこは通り過ぎたで、
私のほうが先に進んどるで、
ああ、お前のその様子はあのころの私みたいやなあ、
今まだそこにおるんやなあ、
まあでもこの辺は進歩しとるところもあるやんけ、
とマウントを取ってきてると知覚されること」 

が、私が求めていたものに反するとき、
この知覚に動揺するのは正当性があって理にかなっているように見えます。

私が求め、期待していた(いる)のは、

「しょうこが私に勝負を挑んでマウントをとってきてるように知覚されないこと」
です。


私はまだ、
「私は限られた賜物を奪い合う必要のある限界のある肉体であり、
別の肉体によって幸せを奪われる存在なので、
マウントを取り合いし続けることを運命づけられている」
という信念を信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには
「しょうこが私に勝負を挑んでマウントをとってきてるように知覚されないこと」
が必要だと考えています。


この不足の信念と、その結果として現れるこの渇望を持ち続けることは、
私にとって心の平安よりも重要だろうか????

 


いいえ。
この不足の信念が間違っていてほしいし、
この不足の信念にともなうこの渇望も手放したいです。

 

この世界のすべてのものごとはひとつとなって、
私にとっての最善のために働いてくれています。

私が私の動揺の原因だと思っていたことは、まったくそうではありませんでした。

この外側の知覚に動揺するという選択は、
その真の原因である、

「神の想像されたひとりにたいして愛の欠如した反応をする」という決断と、
その決断にたいして罪を知覚し、攻撃されるのを予期して恐れながら防衛の必要を感じるようになっていること

を見ないという選択なんです。


この外側の知覚に動揺するという選択は、
動揺の原因が過去・未来にあり、
現在感じていることがその過去・未来の結果であると見ようとする企てなんです。

 

今この瞬間、私が何にもまして求めているのは平安です。

私は自分にとって唯一つの目的である心の平安と再びつながるために、
「私は限られた賜物を奪い合う必要のある限界のある肉体であり、
別の肉体によって幸せを奪われる存在なので、
マウントを取り合いし続けることを運命づけられている」
という信念に疑問を呈し、

自発的に、
「しょうこが私に勝負を挑んでマウントをとってきてるように知覚されないこと」
という欲求を手放します。

 

心の平安とは、今この瞬間、感謝のなかで下すことができる決断です。

罪悪感や、結果への恐れがありえるように思えたのは、
私が過去や未来に原因があるという信念にすがりつこうと決めたからでした。

私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、
解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。

 

私は、今までこの世界にあると思ってきた動揺の原因が、
実は心のなかの疑われることのなかった信念と決断であったことを認識できたことに感謝します。

私は私自身の心の平安のために、
もう一度決断しました。

私のかわりに聖霊に、私のために神を選ぶという決断をしてもらいました。