小さな意欲の方向性

エス、よろしくお願いします。

この前のしょうこさんにもらったメッセージにたいして感じた動揺についてインストゥルメントフォーピースをやった後も、心にひっかかっていたコメントがあった。


それは
こちらからのメッセージで伝えた

「内側から思いがけず、
もう自分がいて相手がいるとかではない、ひとつとして見たいんだ、
という叫びのようなものが上がってきた」
という内容にたいしてのコメントで、

「まだお題目のようにそんなことを唱え続けてんのか。
実際はひとつとしてなんかみたくないんだよ。
だから癒やしが必要なんだよ。」

という内容のコメントだった。

別に唱えようとしてたわけじゃなくて勝手に内側から湧いてきたんだよバカヤロー、というのはもちろん出てたけど、
なんか自分がみたくないところを突かれてるような感じもあって、
昨日そのことについてじっくり見ることができた。


そしたら、あ、ほんまにそうや!というのが入ってきた。

 

自分の心のなかに生まれてる「小さな意欲」があると思っている。

今までその小さな意欲に自分をできるかぎり一致させたい、とやってきたつもりだったけど、

無意識に「自分が救いの責任者になるんだ」とやっていたんだな。

 

自分が今見てるような世界をみることになった理由である、

「神や聖霊の言うこととは反対のことを望んでいる」
「ひとつとしてなんか見たくないと望んでいる」

そういう部分があるのに、

そこには目を向けずに、一生懸命
「自分が救いの責任者になるんや!」
とやってきてたんだな、というのが入ってきた。

 

それと同時に、
しょうこさんが言う通り、

こういう神や聖霊の反対を望んでいる部分があって
それはもう自分にはどうにもならんのんや、

ということを認めるからこそ、

常に四六時中、癒やしと助けを求めることに繋がれるし、
癒やしと助けの求め先である聖霊やイエスに繋がることになるんや、、、

っていうのも入ってきた。

 


自分が救い主にならんといけん・・・
ってやっとるときは、
聖霊やイエスに四六時中繋がる感じはたしかになかったわ。

 

自分が神や聖霊の反対を望んどって、
じゃからこそ今こういう世界や自分を見ることになっとる、
それをはっきり認めること、
そしてだからこそ助けが必要なんじゃというのを認識すること。


これを認識することは、
全体性が戻ってくるというか、
自分の半身が戻ってくるような感覚がした。

とてもありがたい。

 


神や聖霊の反対をのぞんどる。
ひとつでないことをのぞんどる。

今のこのケンタの世界の知覚を作り上げた欲求はそっちなのに、その望みをもっとることを認めとらんかった。

 

そこを認めようとしてると、自分はそれを望んでいる「心」なんだという感じがしてきた。

それを望んだからこそ、この肉体やこの世界を映し出すことになった、そういう「心」。

なんか初めて自分がこの肉体ではなくて心なんだという感覚が今入る分だけ入ってきた。

ああ、そういうことか。

この肉体を見ることになったのは、
心のなかの「神や聖霊の反対を望む」という欲求からやったから、
その望みがあることを認めてこそ、自分が心じゃったと思い出せるっていうことか。

 


そういうのを感じてると、

過去に自分が積み上げてきたと思っていること、ブログなど、全て手放したい。
自分の過去じゃと思っとるものををすべて聖霊に渡したい。

そういう思いが上がってきた。


でもこういう思いが湧くたびに、
その反対、過去を積み上げて分離した自己を確立したいと望んでいる部分もあって、その部分があるからこそこういう世界を見てきたんだということもしっかり見逃さないようにしたい。

そのどうしようもない部分がある、むしろそれがほとんどなんじゃと認めるからこそ、
自分ではなく聖霊に助けを求めるしかなくて、
聖霊こそが救いの責任者じゃと見ることができる。

 

自分が救いの責任者を降りるのは、すごく楽な感じ、
しんみりと何か安心のようなものが浸透してくる感じがする。

自分が責任者から降りるので、
誰かと戦う必要もなくなるような感じもする。

責任者である聖霊・イエスのもとで、安心していられる感じ。

 

堂々と認めたい。

聖霊と神と反対を望んでいることを。
だから助けが必要で、実際助けてもらえるんだということを。

 


小さな意欲の方向性は、
救いの責任者になろうとすることではなかった。

神・聖霊と反対のことを望んでことをできる限り認めること。
そのどうしようもなさを認めた上で、
そこに沈み込むんじゃなくて助けてもらうこと。


エス、しょうこさん、
ありがとうございます。