力強い仲間たち。

エス
えばちゃんとなみえさんのブログを読ませてもらって感じたことがありました。

私たちは別々の人間で別々の心があって
それぞれ別々の心の問題を抱えてるように見えるけど、

かなえさんが書いてくれていたように
本当に同じひとつのこころから来ていて、

それぞれもってるのは別々の問題のようにみえるけど、
問題の原因はたったひとつでひとつの心のなかのおなじ原因から来てるんだということ。

 

そしてみんながそれぞれの持ち場で
目の前にある自分の問題のように見えることに直面して、
そのたったひとつの原因に
それぞれ別々のように見える心のなかからさかのぼっていくこと、

そうやってもともとのひとつの心に戻っていってるんだということ、

そういうことをみんなでやってるんだな、、、
ということ、

そういうのが入ってきました。

それぞれの分離してるように見える心が
「私は愛されることのない惨めで無価値な存在なんだ!」(その無価値さの被害者なんだ)と言い張りたくて、
そう言い張れるような材料を
この知覚されてる世界のなかの「肉体としての私」や「別の肉体との関係」の中にもっていて、
その材料を大事に保ちながら、自分の欠乏と無価値さ正当化しようとし続けている。


たとえば自分の場合は、
今はたぶん
女性の美に賜物を見ていて、
その賜物を目の前にしながら手に入れられない自分の無価値さ、というかたちで、
自分の惨めさ、無価値さを正当化して、
自分は無価値だ、自分はこの無価値さの被害者なんだ!
とやろうとしてるんじゃろうなと感じる。

自分の持ち場であるこの材料と、
それにたいして感じる感情をゆっくり時間をかけて感じるところから、
動揺のたったひとつの真の原因にまでさかのぼって、訂正を受け入れたい。(受け入れたくないと言ってる部分もあるけど)


なんかうまく言葉にできないけど、
さっきえばちゃんとかなえさんのブログを読んでから、
みんながこうして同じ意志をもってさかのぼろうとしてくれている、
ということが、初めて本当にひとつの心としていっしょにやってるんだ、
と感じられたように感じています。

そのことの心強さとありがたさ。

今まで言葉でしかなかった「同じ意志をもって歩んでくれている仲間がいることのありがたさ」みたいなものが、初めて触れられるものとして実感されてるような。

えばちゃん、かなえさん、同じようにさかのぼろうとしてくれているすべての人たち、
エス
ありがとうございます。