あらゆる動揺を手放す最初の一歩。
イエス、よろしくお願いします。
昨日渋谷駅で電車を待ちながら、
ナンパなど具体的な場面場面で自分が感じると思ってる動揺について、
それが感情としてどういう感じなのか、それをちゃんと感じとりたくて、
それぞれの具体的な場面を書き取ってみたいと思った。
「女の子に話しかけて相手や他の人たちに
「ないわー」と拒絶・無視・批判されることについて考えるとき、」
「女の子の懐に飛び込むようなことを言って引かれることを考えるとき、
うざいと言われることを考えるとき、」
「何を言っていいかわからなくなって微妙な空気になることを考えるとき、」
「声が出なくてスルーされたり、
は?と聞き返されたり、
何言ってるかわからんと言われることについて考えるとき、」
「常識的観点から、いい年して何恥ずかしいことやってんだ!?本当ダメ人間だな、、と正面から大真面目に叱られることを考えるとき、」
・・・・・・・
こうやって書き出して、
そのとき自分が内側でどう感じるのかを時間をとって感じていく。
感じるのをゆるしてあげる。
それだけでもすごく軽くなって、
ふっと緊張がゆるんで笑いさえこみ上げてくるような経験だった。
今日また仕事前駅前に立ちながら、
同じようなことを見ていた。
自分にとっていちばん動揺を感じる内容だからこそ見たい感じがしていて、
その流れで今日は自分の死という考えについても感じていた。
(ちょっと体調がおかしいと感じていたので)
たとえば自分のからだがまもなく死ぬと知ったときの(たとえば病気宣告とかで)、
テンション落ちる感じ。
落ちるよね。テンション。
普段それを感じるのをゆるしてあげとらんかったんやな、と気づいた。
自分が死にゆく存在で死にゆく肉体だと信じとる以上(つまり今の日常的な意識のなかでは)、
ふだんから絶対ある動揺なのに。
死の恐怖の、このテンション下がる感じ、
何をやっとるときもうっすらずーっとバックグラウンドで感じとったんやんけ・・!
そういうのをこうして意識的に感じさせてあげるのは、
ほんとに「本当のこと」へとさかのぼっていくための入り口になる感じがして、
なんかいい、、力が戻ってくる、、と感じる。
そういうふうにして、
昨日と同じように
自分が具体的な場面で動揺するときの感情感覚を深く感じてみながら、
今日はそのまま(あたまのなかではあったけど)
インストゥルメントフォーピース(平安へのツール)のプロセスをさかのぼっていった。
「・・・・・について考えるとき」
「・・・・・・と、感じる」
「なぜならこれこれが責められるべきで、これこれをおそれてるからです」
「これらすべては〇〇という信念からきています」
そういうふうにやってるとき、
今日初めてここまで感じれた感じがするのだけど、
本当に、本当に、
どうやら信念がこのすべての動揺と呼ばれる感覚感情のもとになっている???
もしかして?
この信念が取り除かれたらこの動揺もなくなるってこと????
っていうありえないようなよろこび・・・
本当にそんなありがたいことがありえるのか???
みたいな、
そういう感触にちょっと触れたような感じがあった。
じゃあほんまのほんまに、この信念さえ聖霊に取り替えてもらえばええってこと??
そしてそのためにはそれを望むだけでええんか・・
(心のレベルの図の中心、、欲求、、ということ?)
このようにして今日ちょっと一瞬触れさせてもらえた、
ほんとにあらゆる動揺を手放すこと=超絶よろこび状態が可能なんだ・・・という感覚。
もうそこに触れるためにしか生きたくない。
イエス、明日からもどうぞよろしくお願いします。
バチバチに導いてやってください。
ありがとうございます。