完全に無条件に愛される経験を受け入れる。

エスさん、よろしくお願いします。

今日新宿のスタバに入って、何をするでもなく、今やってた平安へのツールに意識を向けたりしていた。

そのとき、ふと自分の手をながめながら、
もし自分をいとしいと思ってくれる人とデートしとるんじゃとしたら
この手をどんなふうに見るんじゃろう?
という思考がやってきた。

この指とか。
ただそこにあるだけで愛しいと感じて、愛しいと伝える人がいたら。

そして、いわゆる「自分とデートする」みたいなアイデアがやってきて、
なんやこれこっぱずかしいの、と思いながらも、
なんかすごく新鮮で初めてな感覚があったので
興味をもって探求してみた。

ああ、なんかこれはすごい新展開かも。

のりこさんたちが「けんたはパートナーをもつといい」と言いよったのはこういうことか、
というのを感じた。

完全に無条件に愛されるという経験。


この無条件に愛される感覚を、そういう経験を、
ぜんぜん自分にゆるしてなかったんじゃのう。

じゃけえこれを始めたとき、
最初すごく自分のなかで緊張がとれんという感覚があった。

とてもじゃないけど安心して愛しあっとる人とデートしとる体の感覚じゃない。

体の奥に緊張があって、
いやいやそんなの受け取れません、みたいなのを感じた。

つねに緊張しとったんじゃのう。

こうして無条件の愛を自分(の体)に注ぐ、というのをやってみて
初めて、
こんなにもずっと緊張して愛を知ろうとしとらんかったんじゃな、、、
愛されることを受け入れようとしとらんかったんじゃな、、、
というのを感じた。


以下はスタバでそれをやってる最中に上がってきた考えを書き留めたものです。

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他人がどうあれ、
骨の髄から、
さらにその奥から。

どう見えようと、
何をしてるように見えようと。

眼球の奥から。さらにその奥から。

(そういう愛)

それをただ受け入れたらどうなるのか?
想像すらしたことがなかった。


周りがどうでとか、周りと比べてどのように見えるとか、関係なく。

ただただそのままで愛される感じを受取ることができるのか。。。

受けとってもええのか。。

これを初めて感じられたのは、
Tちゃんのおかげかも。
ありがとう。
(仲良くしてくれてる中国語の言語交換相手)


今書いとることは、
Oさんの教育・被教育論ともすごく繋がっとる感じがする。(例のナンパを教えよる人)
その人のあるがままを根源的なところで肯定するというのが。


この、
完全に愛されるのを受け入れる感じがあって、
その上で平安へのツールとかその準備ツールを
思う存分使ったとしたら、どうなるんやろう?

(今この瞬間、
より多く、広く、見て気づくことができるようになっているのは感じてる。)


時間はない。
過去もないので、
今ここにあるプレゼンスからの愛を、
すべての時間軸の自分に感じさせてあげて
受け入れさせてあげることができる。



こうして手に触れることで、
愛する人すべての手に触れている感じ。

すでに亡くなった人も関係なく。
愛に時間はない。


愛される肉体が愛なわけではない。
愛するのは心。
だから肉体があってもなくても、実体には関係ない。

 

体の奥の奥から、
さらにその奥も超えたところから、
完全に愛されるという経験を受け入れさせてあげたい。

胎児にもまだなってないような
肉の塊の頃から。

肉体に同一化してしまっているので、
こうして肉体への無条件で完全な愛を経験することで、
それが「ああ、完全に愛されてたんだった」と思い出す引き金になるのかもしれない。


この愛の感覚から、完全な安心に浸れる愛の感覚から、
あらゆる創造性が解き放たれるような感覚がする。


ーーーーーーー以上、最中に書いたメモーーーーーーーー


今日の経験はかなりでかかったように感じております。

エスさん、ありがとうございます。