往古の憎しみが今現在の愛になる場所がいちばん神聖

エス
この前のTちゃんの勉強会でのセッション、
めちゃめちゃ助けになりました。

ありがとうございます。

 

自分も子供のころに
「凍らせた瞬間」だと感じたことはいくつかあって、

でもこれまでに充分見てきたし、
それについて実際に親にもエクスプレスしたりして和解してきた・・
と思っていた。

でもTちゃんの勉強会を見させてもらったとき、

ああ、充分見てきたつもりだったけど、
「ただ感情を感じるがままにゆるしてあげる」
ということは全然まったくさせてあげてこなかったんだ・・・

と気づかせてもらえた。

そのことがとてつもなく大きなギフトのように感じられた。

 

「凍らせた瞬間」に
一瞬にして封じ込めた感情を、自分に感じさせてあげたいと思った。

書き出してみると、

・乳幼児期
・幼稚園のとき
・小学校のとき

とそれぞれ「凍らせた」と思える瞬間があった。

 

【乳幼児期〜幼稚園】
・母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように感じたとき。
(いちばん古い記憶)

・ズボンを親戚などの人前で着替えさせられるのが恥ずかしかったのに、恥ずかしいという感情をバカにされたと知覚して、やはり「自分の感情は感じても意味がない、感じる価値がない」と感じたとき。

【幼稚園】
・二家族でピクニックに行ったときのできごとで、友だちは母親に自分自身の強さを信頼されて励まされているのに、自分はそういうのを与えられていないと感じた。さらにその直後、道を探しに行って戻ってきたときに誰もいなくて、自分だけ置いていかれていたとき。


【小学校】
・会長選挙に立候補するようにというプレッシャーをかけられて、でも立候補するのは怖すぎて、親に嘘をつかざるを得なかった。そして嘘がバレたとき、自分の心情は一切考慮されず、全面的に全否定・断罪された。

・進学塾に行きたくないのに行かされて、いやでいやでさぼるようになったとき、さぼってるんじゃないかと執拗に追求された。
そしてさぼったことがバレたとき、自分の心情は一切考慮されず、全面的に全否定、断罪された。


とくに最後のは、
翌日学校の教室で感じていた「完全に殺した。封じ込めた。」ような感覚をよく覚えている。

完全に自分の声を殺して封じ込めることで、それによって親の味方につくことで、よし、これで生きていける、という感覚だった。

 

このときも含めどの状況も、

「この感情を感じても誰にも受けとめてもらえない」
「この感情を感じる意味がない。価値がない。」
「この感情を感じることは、生きていく役に立たない。」

そういうふうな判断があって、一瞬にして凍りつかせたような感じがする。

 

(ラファエルやのりこさんが、いろんな人の感情が上がってきているときに「それを感じる価値があるんだよ」と言ってきた〈ような気がする〉のを思い出した)

 


これらの状況それぞれについて、
平安へのツールの準備ワークをやってみた。


絶望
無価値感

怒り
孤立無援
パニック
見捨てられた感
悲しみ

 


その奥にある感情は、

絶望的悲しみ

絶叫的悲しみ。

 

 

こういう感情を自分に感じさせてあげたことがなかった。

役に立たないからと。
感じても意味がないからと。
感じても受けとめてくれる人は誰もいないからと。
感じる価値がないんだからと。



でもTちゃんに見せてもらえて、

今、感じて受けとめてもらえるんだよ、
感じる価値があるんだよ、
と、教えてあげることができるんだと教えてもらえた。

絶望的悲しみを感じても大丈夫だよ、安心だよ、受けとめてもらえるよ、
感じる価値があるんだよ、
と教えてあげたい。

感じても大丈夫、受けとめてもらえるよ、と感じさせてあげる。
これを選べるのは自分しかおらん。



 

こうして凍らせていた感情を感じさせてあげるのが第一歩。

でもこれで終わりじゃない。

あらゆる感情をアラウさせてあげた上で、
でもその感情はまちがった前提から来てるんだということを見ていく。

その感情を引き起こしている深層にある考えや信念を見ていって、
初めてそれを訂正してもらうことができる。

 

ああ、ほんとうにこうして何重にも防衛がされとるんやな。
この世界を維持するための防衛が。

感情を凍らせとったら、その感情の元になっとる考えや信念なんてとてもじゃないけと到達できん。

 

 


まず第一歩として、
これまでに感じたのに凍らせてしまった感情を感じるままに感じさせてあげること。

これをするとき、
これをするだけなら、誰も攻撃せんでええんじゃ・・と感じた。

 

そうか。
感情をそのままゆるすだけなら、誰も攻撃せんでええんじゃ。

誰も攻撃することにはならんのんじゃ。

 

Tちゃんのセッションのとき、

感情をすべてゆるしてアラウするからこそ、
関係するすべての人を
無垢だとみることができる

というような話があった気がした。


そういうことなんやな。

 


感じる感情をすべてそのままゆるして、
誰も攻撃しない。

そしてその感じる感情の前提になっとる間違った思考や信念を見て、
それを訂正してもらう。


これがすべてのように感じる。

このシンプルなこと。

 

個人への投影とか、
この世界情勢に見とる投影についても、
全部同じなんやな。

そのなかで感じる感情をすべて感じるのをゆるしてあげれば、だれも攻撃せんでええ。

そしてその感情のもとになっとる間違った考えや信念を
平安へのツールとかで見ていって、
訂正してもらえる。

 


その訂正を受け入れられたとき、
のりこさんが読んでくれた
テキスト26章セクション9段落6のように

「往古の憎しみが現在の愛になった場所が、地上でもっとも神聖な場所だ」

ということになるんやろうな。

私の中の「凍った瞬間」のすべてが、
そのようであることを強く願います。

そうありますように。

 

 


このようなことはすべて
12月の勉強会お試し参加祭りのおかげで、
これは本当に聖霊のおかげ、
その聖霊のガイダンスを聞き取って行動してくださったのりこさんのおかげだ。

そしてその結果として、
このTちゃんのセッションが起こって、
それに大きく助けられたけんたがいる。


これまで、
勉強会でのりこさんが話してくれた
カースティンやフランセスのような

「とことんまでに ”私は知らない” ”聖霊のガイダンスをたずねる” 状態でいる」

というあり方は、

なんか「自分のやり方、あり方」が損失を受けるように感じて、
四六時中そんな状態でいたくない、
というのがあった。

けど今回の、
のりこさんが聖霊のガインダンスを聞き取った結果として起こった流れと
その恩恵をうけた自分の状態をみたときに、

ああ、本当にカースティンやフランセス、のりこさんのように
四六時中
「私は知らない」「聖霊のガイダンスをたずねる」
という状態でいることが、
本当に私自身の幸せに直結してるのかも・・と、
実体験をとおして感じさせてもらえてるように感じます。


ありがとうございます。