いのちを遺棄しないということ。平安へのツール2020年12月23日

エス
この前の勉強会で、
お試し参加された方がのりこさんといっしょにインストゥルメントフォーピース(平安へのツール)とその準備ワークをじっくりやっていくということがありました。

そのときに、
ああ、こういうふうに丁寧に状況を描写するのがすごくたすけになるんだな、と感じさせてもらえた。

・そこに関係している人が自分にとってどういう位置づけ、キャラ設定の存在なのか
・そういうキャラ設定のひとたちとの関係や状況のなかで、自分が何を感じているのか

そういうふうに丁寧にみていくことがとてもたすけになると感じた。

 


前回書きだした幼少期の「凍らせた瞬間」のひとつについて、同じようにやってみようと思った。

丁寧に、文字にして書き出すのはとても助けになった。

 

 

まずやってみたのは、
自分というあり方、この人生全体のベースになっているようにも感じる、
一番古い記憶のこと。

 

(状況)
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように感じたとき。

(自分にとっての状況)
生殺与奪の権利を握っている親という存在が、自分のことを特にケアしようともせず好き勝手に扱う。
・私は生殺与奪の権利を握られている状態


(感情)

・封殺されている感じ
・自由を奪われている
・無力感、無価値感
・被害者感覚
・状況への憎悪、自己憎悪
・孤立無援

奥にある感情は、

・怒り
・憎悪
・絶望感
・絶叫的悲しみ

まず第一歩は、これらの感情を感じるままに感じることをゆるすこと。

 

これらの感情をずっと持ち続けたいか?

→いいえ


そこにある考え・・

BAD(こうなったら嫌だ、避けたい)は、

・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる


GOOD(こうなってほしい、こうなれば動揺しない)は、

・生殺与奪権利者に機嫌よくなってもらって保護される

 

今まで
私はこれらの最悪の想定・最高の想定と、それによって感じる動揺について
「自分の見方、考え方は正しくて間違っていない」と信じ、主張を変える気がありませんでした。

でも今、
冷静に客観的に見てみたいと思う。。。


「これらの必要や条件付けや、いつでも変化する可能性のあるBadもGoodも
私の心の永遠の平安をもたらさないのは当然だ」ということについて同意したいか?

→はい

 


以下平安へのツール(インストゥルメントフォーピース)。


真理は私の欲求を通して取り戻される。
それは、私が真理以外のなにかを欲することいよって失われたのだから。


私が乳幼児期のころ、
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚したときのことについて考えるとき、

・封殺されている感じ
・自由を奪われている
・無力感、無価値感
・被害者感覚
・状況への憎悪、自己憎悪
・孤立無援感

さらにその奥で、
・怒り
・憎悪
・絶望感
・絶叫的悲しみ

と感じる。

なぜなら、
無力な状態に置かれた私と、
生殺与奪の権利を握って好きなように私を扱う母親が責められるべきであり、

未来に、
・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる
が起こるのを恐れているからです。


これらのことは、私が

私のいのちについて何の力ももっていない、
いのちから乖離した
無価値で無力な存在である

ということについて正しいことを証明しています。

私が求めていたのは、
生殺与奪権利者に機嫌よく保護されることです。

 

私は、

・封殺されている感じ
・自由を奪われている
・無力感、無価値感
・被害者感覚
・状況への憎悪、自己憎悪
・孤立無援感

さらにその奥で、
・怒り
・憎悪
・絶望感
・絶叫的悲しみ

という今の感情を望みません。

なので、私の知覚が真実ではない可能性を考える準備ができています。

癒やしのプロセスのために、私はこの動揺と、それらに私が与えた意味を超えてみること、そして心の内側を見ることを意志します。

 


3.私は以下の事象のなかで自分が演じている役割を、罪悪感なしに見る方法があることを学びたい。

「私が乳幼児期のころ、
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚したときのことについて考えるとき、

・封殺されている感じ
・自由を奪われている
・無力感、無価値感
・被害者感覚
・状況への憎悪、自己憎悪
・孤立無援感

さらにその奥で、
・怒り
・憎悪
・絶望感
・絶叫的悲しみ

と感じる。

なぜなら、
無力な状態に置かれた私と、
生殺与奪の権利を握って好きなように私を扱う母親が責められるべきであり、

未来に、
・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる
が起こるのを恐れているからです。」

 


4.私は以下の知覚について、「これこれの理由でこういうふうに感じさせられたんだ」という自分の見方、考え方こそが正しいのだ・・と思いたいという望みを手放します。

「私が乳幼児期のころ、
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚したときのことについて考えるとき、

・封殺されている感じ
・自由を奪われている
・無力感、無価値感
・被害者感覚
・状況への憎悪、自己憎悪
・孤立無援感

さらにその奥で、
・怒り
・憎悪
・絶望感
・絶叫的悲しみ

と感じる。

なぜなら、
無力な状態に置かれた私と、生殺与奪の権利を握って好きなように私を扱う母親が責められるべきであり、

未来に、
・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる
が起こるのを恐れているからです。

これらのことは、私が
私のいのちについて何の力ももっていない、
いのちから乖離した
無価値で無力な存在である

ということについて正しいことを証明しています。」

私はこの自分の見方・考え方こそが正しいと思いたいと望むかわりに、
幸せであることを望みます。

自我という歪んだ見方、考え方を通して、
私は自分が感じる動揺の原因とその解決方法が、心の外側にあると知覚しています。

この投影は実にリアルに見える。

なぜならその目的は
心が内側を見るのを妨げることだから。

 

5.もし私が感じる動揺の原因が心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態について実に無力ということになります。

私の投影(内側に見たくないものを外側にみること)が、
私が無力さを感じる理由であり、

無力な状態に置かれた私、
生殺与奪の権利を握って好きなように私を扱う母親、
そして未来に
・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる
が起こるのを恐れていることが、
私の動揺の原因に見える理由なんです。

 

 

6.私が乳幼児期のころ、
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚したときのことについて考えるとき、

・封殺されている感じ
・自由を奪われている
・無力感、無価値感
・被害者感覚
・状況への憎悪、自己憎悪
・孤立無援感

さらにその奥で、
・怒り
・憎悪
・絶望感
・絶叫的悲しみ

と感じる。

なぜなら、
無力な状態に置かれた私と、生殺与奪の権利を握って好きなように私を扱う母親が責められるべきであり、

未来に、
・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる
が起こるのを恐れているからです。

これらすべては、
私は私のいのちについて何の力ももっていない、
いのちから乖離した
無価値で無力な存在である

という信念の結果としてあらわれたものです。

 


7.私は、外側の知覚が、自分が見ないことにしようとした内側の信念を映し返しているときにのみ、その知覚に動揺します。

外側の知覚に動揺して、外側のなにかを責めたり恐れたりするとき、
それは心に感じる動揺の原因とその解決方法をあるがままに(心のなかの決断として)
見ることを妨げるためであり、
そのかわりに
内側を見ないために作り上げた自己イメージ、他者、世界のイメージを維持するためなんです。


この心のトリックが、罪悪感や恐れの責任をどこか別の場所に移し替えるように見えるかもしれませんが、実際には動揺を維持しつづけることになります。

内側を見ないために外側に作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分や兄弟姉妹を肉体と肉体の世界にしばりつけ、
本当のわたし自身であるスピリチュアルな抽象性を否定することになります。


すべての動揺を手放す最初のステップとして、
私は自分の外側にあると思っていたものを
心の内側に見ることを望みます。

 

私が乳幼児期のころ、
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚したときのことについて動揺することは、

無力な状態に置かれた私と、生殺与奪の権利を握って好きなように私を扱う母親や、
未来の考えである
・生殺与奪権利者に捻り潰され消滅する
・生殺与奪権利者に遺棄され、生きていけなくなる
が起こることが、

私の罪悪感、恐れの原因であることにしようとするひとつの企てにすぎません。

 


8.動揺することは、
母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚することが
私が求めていることに反するとき、価値があって正当化できるように見えます。

私はまだ、
私が
私のいのちについて何の力ももっていない、
いのちから乖離した
無価値で無力な存在である

と信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、

生殺与奪権利者に機嫌よくなってもらって保護されることが必要だと考えています。


この不足の信念と、その結果としてあらわれる期待は、私にとって心の平安より重要なものでしょうか?

 


9.この世界のすべてのものごとは、ひとつとなって私の最善のために働いてくれています。
私が動揺の原因だと考えていたものはまったくそうではなかった。

母親にふざけた感じで怖がらせられて、からかっておもちゃのようにされている知覚があって「自分の感情はケアしてもらえない、感じても意味がない」というように知覚すること、
に動揺するという選択は、

動揺の真の原因である、今この瞬間の心の決断、分離の決断を見ないという選択であり、
動揺の原因が、今この瞬間の決断ではなく、「過去」や「未来」にあると見ようとする選択であり、
現在の動揺はその結果にすぎない、私は過去や未来の被害者だ、とみようとする選択なんです。

 


10.
私は自分にとって唯一の目的である真の平安とふたたびつながるため、

私は私のいのちについて何の力ももっていない、
いのちから乖離した
無価値で無力な存在である

という信念に疑問を呈し、

自発的に
生殺与奪権利者に機嫌よくなってもらって保護されることが必要だという欲求を手放します。


11.
心の平安は、今この瞬間心のなかで下すことのできる決断です。

罪悪感や結果への恐れがありえるように見えたのは、
私が

過去や未来に原因があるという信念、

つまり、
私は私のいのちについて何の力ももっていない、
いのちから乖離した
無価値で無力な存在である
という「過去」についての不足の信念、

そしてそこからくる「未来」への渇望的欲求に

すがりつくと決断したからでした。


私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、
解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。

 

12.
私は、今までこの世界に在ると思ってきた動揺の原因が
実は心のなかの疑われることのなかった信念と決断だったことを認識できたことに感謝します。

私は心の平安のために、もう一度決断しました。

 

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ていねいにやっていくと、

確実に今まで見えてなかった何かに目が開かれていくのを感じる。


自分というものを、
自分のいのちから乖離した
無力で無価値なものとして見続けてきたんだな。

 

自分の感情も自分で遺棄してきたので、
また、そういう
感情を遺棄するに至った自分の見方・考え方こそが正しいとしてきたので、
自分の正しさを維持するために
人からの愛も受け入れるわけにはいかないとやってきたのかもしれない。

(遺棄、というのは自分にとってけっこうキーワードな気がした。遺棄しないとは、自分と、いのちと一緒にいるとはどういうことか。それを知らないと思ってきた。)

 

それはたとえば、
仮に女の子に話しかけて話すことになっても自分が乖離してるので自分自身楽しめないし、当然女の子も楽しめないだろう・・というイメージとしてもあらわれていた。

 

「遺棄」せずに、イエスとともに、本当にいのちとともにあれるのだとしたら、いったいどんなんだろう。

今まで経験した記憶がないけど、今日ちらっとその可能性を感じさせてもらえたような気がする。

本当にそのようにあっていいんだと、完全に意識的にいのちとともにあっていんだと、自分にゆるしていきたい。

 

そのために、ていねいにひとつずつみていきたい。

そして心の自由をどんどん感じたい、体験したい。

エス、ありがとうございます。

今後ともよろしくお願いします。