自分の意志・欲求が必要だけど、ひとりで天国に入れるわけじゃない。
イエス、今日からレッスン134に入りました。
レッスン134
「私が赦しをあるがままに知覚できますように。」
ゆるしについて、これまでよくわかっていなかったけど、
なるほど、わからないわけだ、、というのを感じた。
私はひとりで天国に入るのを求めとったんだな・・。
ゆるしの意味が理解できるわけがない。
ゆるしについて書かれていることを読んで、
自分がいかにそこからかけ離れているのかが意識化されることになった。
道行くマスクしてる人たちを責めている。
自分の見方が正しくて、お前らは間違ってると責めている。
あと、この茶番をつくっているすべての人たち、支配者層も責めている。
こんなことをしながら、
自分だけ天国に入れるわけがなかったのは当たり前のことだったんや。
そのことをいちばんはっきり認識させてくれる言葉。
「誰もひとりで十字架にかかることはない。
しかしまた、誰もひとりで天国に入ることはできない。」
そしてゆるしが何なのかさっぱりわからない私が、
ゆるしが何なのか知っている聖霊に教えてもらい、
そのメッセージを受取るためのヒント。
→
兄弟を攻撃している自分に気づいて、
「私はこれと同じことをする自分を、責めたいだろうか?」
と自問すること。
たとえば自分も3月はコロナを恐れていて当然のようにマスクをつけていた。
そのとき自分を責めることなんてなかったのに、
今は他の人たちをそのことで責めている。罪を見ようとしている。
これはわかりやすい例だけど、それに限らず
ほんとにうっすらしていて自分の意識に気づかないようにしてるようなことでも
ほんとにほとんどのことについて裁いている。攻撃して責めている。
そういううっすら気づかないようにしている攻撃にも気づいて、
「私はこれと同じことをする自分を、責めたいだろうか?」
と自問する。
自分にはゆるしがなんなのかわからないけど、
この練習ならできると思う。
自分だけが救われて天国に入りたいと思っていることを認めて、
全員をすくい上げる聖霊の意志に、すこしずつでも地道に開かれていきたい。
そのために練習する。
「赦しは練習されなければならない。
世界は赦しの意味を知覚できず、その恩恵をあなたに教えるための導き手を提供することもないからえある。」(レッスン134-13)
「赦しは一日をとおして練習されなければならない」
(レッスン134-17)
この世界でボーっとしてても、この世界のなかに赦しが何なのか教えてくれるものはないので、
赦しについて知ることはできない。
意図的に練習したい。
「彼の中にある罪についてあなたが抱いたすべての考えから、彼を自由にしなさい。
そうすれば今、あなたには自由を得るための準備ができたことになる。」(レッスン134-16)
兄弟を縛りつけようとして、自分自身を縛ってきた。
それを認めて、その鎖を外したい。
「私が赦しをあるがままに知覚できますように。
私はこれと同じことをする自分を責めたいだろうか?
私はこの鎖で自分を縛るつもりはない」
「誰もひとりで十字架にかかることはない。
しかしまた、誰もひとりで天国に入ることはできない。」
(レッスン134-17-6,7)
本当に自分に何度も何度も教える必要があることだと感じる。
イエス、
私がこのことを忘れませんように、
自分に教え続けることができますように、
どうか助けてください。
自分だけが救われたいという自分の考えをはっきり認めることができますように。
その上で、全員でしか天国には入れないことを受け入れていけますように。
全員をすくい上げるあなたの意志に一致していけますように。
(今記事にタイトルをつけようとしたとき、
平安へのツールに
「真理をとりもどすにはあなたの欲求が必要」と引用されてるように
自分の意志・欲求が決定的に必要なんだと考えていて、
その流れで「自分が、自分だけが天国に入れる」みたいに無意識になってたように感じた。
そういうふうに間違っていたのか。。)