目の前の人との出会いをとおして尋ねる

エスさん、こんにちは。

今度仕事関連でミーティングをもつことになって、
その関連で「質問力」についての本を調べるような感じがして
Amazonでみつけたひとつの本をダウンロードして読んでいました。

 

その本はもちろん神とか聖霊にたずねることについて書いてあるわけではないのだけど、そこに書かれているアイデアから派生して、神や聖霊に「たずねること」について感じるものがあった。

「自分を質問脳にする」というアイデアから。
→自分にはわからない、ということを積極的に認める。受け入れる。

そして
たずねれば教えてもらえる「自分の知らないこと」が無限にあるんだ、
ということを「信頼」する。

そしてそれは自分の目の前にあらわれるあらゆる人をとおしてなされることができる。

自分の目の前にあらわれる人をとおして、その人が誰なのか、真理は何なのかを尋ねることができる。

(そのプロセスで恐れなどのさまざまな感情・動揺を感じることもある。

その動揺は、私自身の「クラッシュ」の衝撃への思い込みにもとづいた動揺。
それをそこに見ている。それを見ていくひとつの機会。)

 

この
「その人が誰かわからない」「だから尋ねる、質問する」というイメージをもっていると、
自分という人間にたいしてもこれは同じように言うことができて、
自分という人間についても、それが何者なのか、誰なのか、
わかってなかったんじゃないか。。。という感じがしてきた。

そうすると、みんなもそうだ(みんなも自分が何者なのかわかってなくて、それなのにそれぞれが「自分はこういう者だ」という自分で勝手につくった前提にもとづいて生きている)と感じられてきて、

そしたら、
わたしたち全員が、ただただ気づいたらこの肉体を与えられて生きているだけ、そこに何の意味もない、という無垢さみたいなものが感じられてきた。

あらゆる人がそうなんだと。

想念はその源を離れない、

という、その無垢さ。

 

 

今住んでいる場所は本当に簡易的な場所で、別のスペースに住んでいる人との仕切りが本当に薄い。

しょっちゅう清掃の人が入ってくれて、
とても清潔で静かなのが気に入っていたのだけど、最近入ってきた人がどういうわけかシャワーを浴びないようにしてるのか何なのか、その人のいるスペースからホームレスのような臭いが建物中に漂うようになってきている。

そのことについて
「うっ」という感じ、裁きの思いや嫌悪感が上がってきている。

でもこの人との出会いも
私が見えていないものを見せてもらうことができるように
与えられたもののようにも感じる。

 


エス、どうか教えて下さい。

この人が何者なのか。どこから来たのか。

私が何者なのか、どこから来たのか。

どうかよろしくお願いします。

ありがとうございます。