妙な逆転感
「これらは自我の、神にたいする感情なんです」
「あなたのではないんです」
けんたという人の全人生で感じて抑えて抱えもっている平安以外のあらゆる感情について、この大前提を完全インストールしたい。
どんなささいな感情も。
そのうえでこそ、なんの抑圧もなく完全に感じさせてあげることができるし、
その感情が生まれることになった思考や信念や決断もみて、受け入れて、捧げていくことができると感じる。
そうすれば自我の感情を正当化するために作り上げられたけんたという人が実在していないことも受け入れられそうな感じがしている。
これはとてつもない解放だと予感される。
なんかこの言葉を受け入れると妙な逆転感を覚える。
今まで、このけんたという人を幸せにするためにいろいろ学んできたんだと思ってきたのに、
なんか逆だった、みたいな。
けんたという人が救われる必要があると思っとったのに、
なんか逆だった、みたいな。
うまく言葉にできんけど。
たとえば今の騒動についていうと、 自分の見方は正しくて(コロナはない)、その正しい自分がどうにかしてなんからの形で救われる必要がある、というふうに見とった。
「正しいと思っとる自分の見方」をとおして出てくる、(嘘が横行して狂っとる)世界にたいして感じる感情、恐れとか怒りとかもろもろ、
そういうのは「自分が正しいという事実」をベースにして生じとる感情じゃから
「正しい自分」とセットになっとって、
この「正しい自分」が救われていくプロセスで「正しい自分」は温存されたまま、これらの感情だけが癒やされていくんじゃろう、というふうにみとった。
でも
「これらは全部、あなたの感情じゃなくて、神にたいする自我の感情なんだよ」
といわれると、
『わしの感情じゃない? 「わしが正しいという事実」から生じとる感情がわしの感情じゃなくて自我の感情なんじゃとしたら、わしが正しいという事実とか、正しいわしっていう概念そのものが自我のものじゃったってこと???』
というような、
妙な混乱と逆転感が感じられてくる。
「正しいわし」がこれからどうにかして救われていくんじゃ、っていう思い描いとったストーリーが根本から覆されるっていうか。
意識的に↑こういうストーリーを思い描いとったわけでもないけど、この妙な逆転感のなかで、そういうことを期待しとったんじゃな、と気がついた。
この妙な逆転感、慣れん感じもするけど、
なんかとてつもない解放につながっとるような感じがしとる。
ジーザス、引き続きどうかよろしくお願いします。
ありがとうございます。