青森

覚え書き。

・打診があって、いい感じはしたので行くことにした。

・ホテル、新幹線、レンタカー、防寒対策など事前準備

13日(初日)

品川で合流して東京駅へ。きっぷ渡してコーヒー飲む。

12:20発で八戸へ。八戸から三沢へ。

音楽。新幹線でラファエルが「君の名は」の音楽について話し、自分もその場でダンロードして聴いた。ちょうど現れ始めた外の雪景色を、その音楽が完全にしてくれるような感覚を覚えた。

三沢で迎えのレンタカーやさんといっしょにオフィスへ。

レンタカー借りて隣のローソンで現金引き出し。

八戸に向けてドライブ。

ショッピングモールのような場所で食事がしたい、ということで、それらしいところの近くに駐車。

歩いてモスバーガーへ。2Fの席。

このときはリラックスして、落ち着いていて、聞く態勢だった。そのなかでラファエルが話してくれたこと。

私には何ひとつわからない場所ブログ記事。

 

一瞬、イエスが話しているような感覚、一瞬こみ上げる涙と爆発するような笑いの感覚を覚えた。

ホテルパールシティ八戸にチェックイン。パチンコ屋に停める。

 

14日(2日目)

10時ごろチェックアウト。三沢ビーチ方面へ。

近くのコンビニで休憩。(このときかは忘れたけど、どこかのコンビニで車をだすときに当てそうになったのをラファエルに助けられる)

ビーチへ。

駐車スペースがなく、漁協のスペースに停めさせてもらう。

近い方の最初のビーチでカメラテスト。

その向こう側にもっと広いビーチがあり、そこに行きたいということで、道なき雪道を進む。

ようやくたどりついてカメラテスト。

その後、のりこさんたちがよりビーチにアクセスしやすい駐車場所と歩行ルートを探して歩く。

最終的に駐車場所が決まる。

ミス・ビードルのロケハンは最終日にしようということになり、十和田へ向かう。

チェックイン前にモスバーガーへ。

ラファエルのコロンビアでの話。しょうこさんという英語が話せるスタッフが全身コーディネートしてくれたという話。

十和田スマイルホテルにチェックイン。ラファエルが疲れて不機嫌に見える知覚と、それにたいする動揺。40分くらいあとに話そうといって、1時間後くらいに部屋にラファエルが来て話す。

その間IFP(平安へのツールと準備ワーク)をやっていて、さっきのラファエルへの知覚、今日うっすら上がってきていた、だまってファンクションに従い続けることへの抵抗感についてやっていた。

ラファエルが来たときにそれについて話す。

ファンクションにたいする感情 
ブログ記事。

「正しい人に従わないと救われない」「自分がゴミ」という信念に触れて、地に足がついてホッとしたような感覚。

 

 

15日(3日目)

昨日の夜のIFPでホッとした流れで、次のが来た感じで、起きて準備中にモヤモヤ。昨日のラファエルのコロンビアの話から湧いていた祥子さんについてIFPする。(集合時間が伸びて、する時間ができた)

その結果の無価値感、エンプティネス(空っぽさ、完全な欠乏感、何もない感じ)について触れて、ホッとする感覚。

「今までこの学びの道で何かしらを積み上げてきたと思っとったけど、実際には何ひとつ積み上げられてなかったんや。」
「この無価値感、からっぽさを感じとるもの(=わたし)があるだけや。」
「このエンプティネスを感じとるところしかはじめる、それしかないんや」

出発前の車でそれについてラファエルに話す。

そのときラファエルが話してくれた言葉、「オルタナティブ」(代替)。

彼は「自分自身の考えややり方の代替(オルタナティブ)としてファンクションが与えられとる」の意味で言ったかもしれんけど、

自分にとっては「出口へ導いてくれる、私の知らない未知のもの」という意味でもとらえられた。

昨日と今朝のIFP(平安へのツール)をとおして、
自分がからっぽの無価値感を感じとるだけの存在だ、と感じられたとき、
自然とそのあいたところにオルタナティブが流れ込んできたような感じで、そこからファンクションがすごくらくになったように感じた。

自分がやる感じじゃない。

(そうやって動いていると、一日が終わってもまったく疲れなかった。)

奥入瀬へ。ロッジで遊歩道に入れないことが判明。店のおじさんに話をきいて、車で移動して随時停めながら、ピンポイントで見ていこうとなる。

その日はロケハンということに。

渓流全域を見ていって、明日行くところをざっと決めて終わる。

またモスバーガーに行って晩飯。

 

 

16日(4日目)

朝7時に集合して出発。一発目が雲井の滝。

昨日のオルタナティブが流れ込んでくる感じを追い求めるところがあった。

でも思い出すといい感じもして、雲井の滝でラファエルが撮るのを眺めながら、

ラファエルもこれと同じものに動かされとるんかな、と、

今まではラファエルという「人」を対象として見ていたのが外れた感じがして、自分もラファエルも同じひとつのスピリットのようなもの、大きなもののもとにあるんやな、と初めて感じられたような気がした。

と同時に、三沢ビーチロケハンでうっすら感じてたのと似たような抵抗感覚もだんだん上がってきていた。

もう従いたくない、みたいな。

動揺が上がってきていて、車をUターンさせるときに後ろを雪に当てたときのラファエルの咳払いにバカにされたような知覚が上がってラファエルにたいする怒りもわいてきた。

そのころからかなり自分のなかで閉じる感じを感じていて、これは絶対ラファエルも感づいとるやろうな、でもどうしようもないという感じになった。

1番目の場所が終わって2番目のとこにいったくらいが最大だったかもしれない。千筋の滝。

ラファエルが「どういうわけかここでけんたを撮る感じもある。どう感じる?」と聞かれたとき、そのときの閉じた感じと、昨日からのエンプティネスとオルタナティブの流れからの自分がどうなろうと、撮影されようがされまいがどうでもいいという感覚もあって、「撮られても撮られなくてもどっちでもいい、どっちがとかいうのは感じない」とこたえた。

結局それについてラファエルがその後話題にだすことはなく、次の場所に移動した。倒木のエリア。

ずーっと昨日と同じように、未知のもの、オルタナティブへたすけを求めながらいたと思う。でも昨日のようなリラックス感よりも、このあたりでは動揺と閉じたい感覚が勝っていた。

すこしずつ自分のなかの動揺はおさまっていった。

4番目は銚子大滝。何かのツアー客がいて、今日はやめて明日にしようとなる。

帰りの途中にトイレパーキングに立ち寄る。そこでラファエルが川沿いの良いポイントをみつけて、そこでも明日撮ろうとなる。

その場所で晩飯どうしようかとなったとき、自分は好みはないといって、ラファエルはファストフードがいいといって、結局モスバーガーになった。

モスバーガーで、ラファエルがずっとこっちを見てくる。

昼間の自分の閉じた感覚や動揺はそのときは収まっていたように感じてたけど、昼間感じてたことを話したくないというのがあって何も反応しないでいると、どう感じてるのかラファエルが聞いてきた。

きたーと思いながら、昼感じてたことを口にしようとした。スペシフィックなことを(車のUターンで怒りを感じたとか)はすぐに言いたくなくて、全般的な感情を述べた。

またいつもどおり同じパターンで動揺が上がってきて、それについてうんざりするし、幸せや平安をもとめてそれに向かって救いを求めてストラグルする(あがく)のにもううんざり、というのを感じていた、と。

同じパターンの動揺にも、それから逃れて平安を求めてストラグルするのにも、どっちもうんざりだと。

そういう話から始まって、ラファエルとやりとりするなかで、結局スペシフィックなことも全部話す流れになった。

ラファエルはケンタにプライベート思考があるのは気づいていたといった。

ケンタのそのうんざりだ、というのはただ出てきた思考のシェアじゃなくて、ケンタはそれに同一化してる、とラファエルは言った。

ラファエルは今回の旅の中でほとんどの時間ケンタとつながっていないと感じていたと話した。

東京や伊豆のときは違ってたのに、と。

今回は2−3回一瞬そういうときがあっただけだった、と。雲井の滝で雪をほってるときとか。

その話をきいたとき、 自分にとって今回は、あのオルタナティブが流れ込んでくる感じやIFPをとおしての深まりも今までになく感じていたのがあって、とてもじゃないけど東京や伊豆のときより深まって、自分にとってはよくなってると感じていたので、ラファエルのその認識に、は?そう感じてたんだ、となった。

これはもう少し時間的に後だけど、自分のなかにこういう食い違いがあるので、ラファエルのいう「コネクションを感じていた」という瞬間の感想について(東京や伊豆、今回の雪を掘る場面など)、自分のなかには疑いというか自分の感覚とはあってないという思考があると伝えた。

とくに東京や伊豆のときのほうがコネクションがあった、というのは、自分にとって違うと感じていた。

(東京、伊豆のころはかなり「ラファエルは聖霊にしたがう正しい人で、その人に従うことが自分にとっても正しくて救いにつながる」というようなフィルターがあった感じがしていたので、そのフィルターによって自分にとってはコネクションが今よりもないと感じていた。)

時間の前後は覚えてないけど、こういう話をしながら、自分はあの未知のオルタナティブにしか救いがないと感じてたんで、ラファエルを見ながらそれを求めていた。ラファエルもこっちから目を話さずに、だまってお互いをずっと見合うという時間が続いた。

どういう流れだったかはよく覚えてないけど、このままでは予定どおりファンクションは続けられないと感じる流れになった。このまま一緒には動けないというのなら、ここでやめるのか、どうするか。

どんづまって、「私たちはどうするべきかな?」といったとき、

ラファエルは「それはどういう意味だ?問題はお前がどうしたいかだ」と言った。

ラファエルは自分は目的はクリアだ、お前はどうなのか?と言った。

そうなって自分のなかをみたとき、もう続けられないかもな、という感じもすごくあって、

じゃあどうしよう、この場で立ち去るにしてもレンタカーどうにかせんといけんし、この場で立ち去ってのりこさんにここに車を引き取りにきてもらうしかないんか、とか、とりあえず明日三沢までラファエルを送っておさらばするか、とか、このままコースの道から離れるしかないのう、とかいろいろ巡った。

でも最終的には、こうして仲良しというわけではない状態でも、自分は今回のファンクションをコンプリートしたい、というふうになって、そう伝えた。

(ラファエルは自分と同じようなクリアな目的意識がないといっしょにはできないと言ってるように自分は知覚した。自分はそういう状態ではないけど、ラファエルのためじゃなくてファンクションをコンプリートしたいと感じた。ラファエルとのあいだにコンフリクト(諍いのように見えること)があったとしても。)

その理由は?とラファエルが聞いたので、こういう仲良くない状態でも、二人で同じファンクションをやってみることで、何かいいものが待っていると感じるから、とこたえた。

それにこのときラファエルもいったように、さっきのどうしようもない状態よりも、何かしらの繋がり感は感じ始めていた。

そして自分のなかではこの時くらいから、この言い合うような(ラファエルはディベートする気はない、といってたからその感じではなかったかもだけど)やりとりのなかで、

東京や伊豆のときにはもっていたラファエルへのフィルター(ラファエルは聖霊にしたがう正しい人で、その人に従うことが自分にとっても正しくて救いにつながるというようなフィルター)がとれたと感じていて、東京や伊豆のときよりも今のほうがずっといい感じがする、と感じて、そう伝えた。

自分のなかではこれがすごくありがたい感覚だと感じられてきた。フィルターがとれた感覚。とても力強い。

そして結局最後には手を握り合って、翌日もこのまま予定通り行くことになった。

その夜寝るときまで、自分にとってははじめてラファエルにたいするフィルターがとれたように感じていて、この感覚はすばらしい、友ってこういう感じなのか?と人生で初めて感じたくらいに、近く感じていた。

 

17日(最終日)

前日の夜の話で、最初自分は朝6時にドア前集合でどう?といったけどラファエルは5:45と言って、自分も同意してそうすることになった。

それなのにラファエルが遅れて6:20くらいになったことで、昨日の流れもあって怒りがわいたのを感じていた。けど、そのときリアルに感じてたのは、この怒りはこのトリガーを今か今かと待っていたもので、本当はそれ以前から自分のなかにあったものだと感じていた。

こういうことを車のなかで瞑想したあとラファエルに話した。

昨日のことは自分にとってはすばらしかったとも話して、プロセスは信頼できるということをあらためて認識したし、プロセスを通過する中でいっしょにいてくれてありがとうともいった。

ラファエルに今どう感じてるのか聞いた。

すると「なんでそれを聞くのか聞いてもいいか?」と聞かれたので、今瞑想してたときも、昨日からの感じで、いままでになくラファエルという人を感じられた、だから聞きたい、といった。

するとラファエルは、昨日のことについて悲しみを感じたとかいくつか感じてることをシェアしてくれた。

それを聞けて本当にありがたいと思った。

今までになく対等な存在として近くに感じれてありがたいと思った。

そのあとは一日中ファンクションだった。自分は昨日とは比べ物にならないくらい、とくに動揺もなく落ち着いてリラックスしてすごせていた。

ファンクション中はラファエルはファンクションに集中してるし、ファンクションに関係あること以外ほとんど話さないので気にならなかったけど、

全部終わろうかというときくらいから、ラファエルが自分にたいして明らかに閉じているように感じられてきた。

とりあえず自分が参加する撮影は全部終わったのにそれについてのコメントもサンキューもない。それを求めてたつもりはなかったし、それについてそのとき怒りがわくこともなかったけど(奥はわからんし、多分奥に怒りはある)、閉じられているように感じた。

そして電車の時間があるので駅に向かわんと、ということで駅に向かって車を走らせてるときも、ずっとラファエルから閉じられているように感じていた。たんに疲れていて話さないというよりも。

駅についても特に何もコミュニケーションがなく、荷物まとめてじゃあね、というときやっと話しかけてきたと思ったら会計のことで、それを終わらせて、でも改札までいっしょにきてくれてハグをしてくれた。最後に日本語で「ヨロシクオネガイシマス」と言ったけど、それ以外ラファエルが口にすることはほぼなかった。

そうやって別れたあと、

もしかして自分があまりにもかたくなに自我のなかに閉じこもってるから

「こいつには何を言っても今は無駄」というのがあってラファエルはああいう態度になったんじゃないか、というのが湧いてきた。

実際、そのときの自分の状態をみても、全然負けてる感じがないし、人との分離を見ているのははっきりしている。

そして、ああもしかして、昨日モスバーガーでラファエルにたいするフィルターがとれたといういい感じを感じとったけど、あれは自我が勝利感を得たええ感じじゃったんじゃないか、という疑いもでてきた。

そして、とにかく自分は完全に大きな勘違いをして、ここまでまったく間違った方向につっぱしってきて自我を強化する結果になったんじゃないか、自我をあまりにコチコチに固めてきたんじゃないか、その結果が最終日のラファエルの態度じゃったんか、、というふうになった。

もう自分はこの道だめじゃの、となった。

今までやってきたのは、完全に勘違いで間違った方向に突っ走って自我を強化してきただけじゃったんかもしれん。

完全に勘違いで間違えとったんか。

のりこさんのクラス、勉強会にもついていけん、次からやめさせてもらおう、というふうにもなっていった。

ああ、もう救いがないわ、みたいな感じになっていった。

でも冷静になって、本当にこの世界に生きとるように見える自分のなかで、救いのような幸せのようなものがあるとしたら、やっぱりこの内側に向かうしかない、

今まで学んできたことを全部手放すにしても、やっぱり内側に何らかの方法で向かうしかない、というのはやっぱり感じられてきた。

そういうわけで新幹線に乗ってから思い出してたのは、フランセスのYouTube「Trust is total」でいわれとったことで、「マイティコンパニオンがいてたすけがあって問題を解決できる」というのとはまったく違ったアプローチとして「信頼」があるという話。

今がどんなんでも、将来ではなく今この瞬間にこたえが与えられているということを信頼できる。

私たちはそのようなかたちで世界にたいして力をもっている、という話。

それがそのときは唯一の救いというか開かれた可能性のように思えた。


そして何かほかにたすけは?と求めるなかで、インスタにあったデイヴィッドの言葉を読んでいった。そこから以前kindleにダウンロードしていたデイヴィッドの本「This Moment Is Your Miracle」を読みたくなって、読み始めた。

もう今まで学んできたことぜんぶ完全に手放して、またゼロから一歩一歩学んでいくしかないという感じになっていた。

それで以前とは違った感じで、初めてみるかのようにデイビッドの話が書かれた本を読んでいった。

そのなかで「どうすれば平安になれるの?」という質問にこう答えるんですというデイヴィッドの答えに感じるものがあった。

“By unveiling and forgiving your blocks to love"

「愛にたいするあなたのブロック」のヴェールをはがし、それをゆるすこと。

この言葉のシンプルさに感じるものがあった。

自分のなかにある、愛にたいするブロック。

そのヴェールをはがすこと。そしてそれに罪をみるんではなく、赦すこと。

後半の「それに罪をみるんではなく赦す」があるからこそ、ヴェールをはがすこともやっても大丈夫かな、と思えるように感じた。

ヴェールをはがした結果罪があらわになるんじゃとしたら、とてもヴェールを剥がす気になれん。

愛にたいする自分のブロック。

今の自分を見ると、あきらかに分離をみて、「わたしとあなたは違いますよね!」とあらゆる人に向かって主張していることが意識に上がってきた。

だから敵対を作り出して自分が一番上に立とうとしてるし、 自分より上か下かだけで人を見ようとするし、 あるいは自分にとって利用価値があるかないかだけで人を見ようとしている。

そのこと、今自覚できるそのことを認めるしか、今自分にできることはないと感じた。

本当に「こっちに行けば救われる」「こうするといい」「こっちに行くといい」とか、まったくわからん。自分がええと思ったことは勘違いしかない。

今自分がやっとるように見えること、分離を見ようとしてそれを見とることを認めるしか、今の自分にできることはないと感じた。

以前祥子さんがくれた「私たちはひとつとして見たいなんて思ってないんだよ。だから助けが必要なんだ」というメッセージを思い出して、本当にそうじゃと、それしかないと、これまでになく感じた。

今の自分は「だから助けが必要」とさえ思えてないかもしれんけど、とにかく今やっとる、自分が分離を見ようとしとることを認めるしかできることはないと感じる。

そうやって愛に対する自分のブロックをunveil(ヴェールを剥がす)して、それをforgiveできるように願う。

(たとえば祥子さんについても、今までは「自分でも何でかわからんけど祥子さんは自分にとって究極の敵というか、どっちかが生きたらどっちかは死ぬというような敵対関係にある者として知覚されるんです」というようなことを自他に言ってきたのだけど、これも「何でかわからんけど」とか言ってカマトト被害者ぶった自己欺瞞だと今感じる。自分が分離を見てその敵対関係を自分で作っとるのに「何でかわからんけど」とか言って被害者ぶっとった。)

青森から新幹線で帰って、そのまま家に帰る感じにならなくて駅そばの安いホテルに泊まったあいだ、以上のようなことが心のなかにあった。

自分の心の中だけに収めておくことに苦しさや違和感を感じて、誰かにエクスプレッションさせてもらうというアイデアが浮かんだ。

ふと、あすかちゃんの最近のブログの内容が浮かんで、あすかちゃんに聞いてもらうといいような感じがして、抵抗はあったけど内側に聞くと「いい感じ」がしたので、メッセージを送って話を聞いてもらえることになった。

そのプロセスをとおして随分軽くなったし、実際話を聞いてもらえて、これが発散なのかなんなのかはわからんけど、軽くさせてもらえた。

スペースを保って聞いてもらえることが、そしてそれをとおして感じたことを素直に話してもらえるのが、ありがたかった。