出口

今日からレッスン151に入った。

この前かなえさんとえばちゃんに助けてもらったときに感じたことが
このレッスンにありありと書いてあるように感じた。

(以下レッスンのメモと引用)
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五感が伝えることがたよりにならないとわかっているのにそんなにも五感を信じているのは、それに確信があるフリをすることで、潜在している疑いを隠したいからでは?

あなたに判断はできない。
あなたの判断は、これ以上になく間違っている、五感が差し出す証拠にもとづいているのだから。
あなたの判断のための材料は、これしかない。

「あなたは自分の耳と目が報告することに、哀れなほどの信を置いている。
あなたは自分の指が実相に触れ、真理をつかむと思っている。」

あなたに判断はできない。
あなたにできることはただひとつ、完全にすべて間違っている自我の判断を信じることだけ。

「自我はあなたの五感をたくみに導いて、あなたがどんなに弱いものであるかを証明しようとする。
どんなに無力で、怯えているか、
正当な処罰をどんなに恐れているか、
どれほど黒く罪にまみれ、
どれほど罪悪感に苛まれているかを証明しようとする。

自我がこのように語る存在、そしてなおも守ろうしている存在があなたであると、
自我はあなたに告げる。

そして、あなたは確かにそのとおりだと頑なに信じている。
それでも、その確信の裏にはひそかな疑いが残っており、
自我がこんなにも確信をもって実相だと教えているものを、自我自身が信じていないのではないかと、
あなたは疑っている。

自我が咎めているのは自我だけである。
自我が罪悪感を見ているのは、自我の内側においてである。

自我があなたの中に見ている絶望感は、
自我の絶望感である。


自我の声を聞いてはならない。
自我が自分の悪をあなたのものだと証明するために送ってくる証人たちは、
偽証する者たちである。

彼らは自分の知らないことを確信をもって語る。

あなたはそんな証人たちを盲信しているが、
その理由は、
彼らの主人である自我にも完全に消し去ることのできない疑いを、
あなた自身が共有したくないからである。

自我の従者たちを疑うことはあなた自身を疑うことになると、
あなたは信じている。


しかし、彼らの証拠を疑うことこそが、
あなた自身を認識するための道を開くということを、
あなたは学ばなければならない。

そして、あなた自身の信念とするには何がふさわしかを決めるには、
神を代弁する声に判事となってもらいなさい。」

 


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とくに
「あなたにできることはただ、(完全に誤った五感の情報などにもとづいた)自我の判断を信じることだけだ」
というところ。

罪悪感を笑い飛ばせる見方がかなえさんには見えていて、
自分はどうしようもないと感じているとき、
まさに
「だめじゃ、俺にはこれしかできん!」
「この自分の判断、見方がただしいと主張したい、自分にはそれしかできん」と感じとった。

自分ひとりでできるのは、これしかない。

それを認めるしかないと思ったとき、何かがふっきれた。

自分ひとりでやっとることを認めて浮上させるしか自分にはやれることがない。

だから仲間とつながっていっしょにみてもらうことや、
聖霊にたずねて入ってきてもらうことにしか出口がない。