「愛されていることを受け入れなさい」
さっきのりこさんのブログを読んで、
「愛されていることを受け入れなさい!」
「兄弟がどんなにおかしなことをしたり言ったりしているように見えたとしても
それでもその肉体を超えた兄弟の真の姿によって、今も愛されているのだと自分が自分に教えなさい」
という言葉を読んだとき、
自分はやっぱり道行く人たちにたいして
「おとなしくマスクしてりゃいいと思って自ら好んで奴隷になっとる人たち」
とか思ってバカにしとるところがまだまだあることに気付かされた。
でももし、
「その肉体を超えた兄弟の真の姿によって、今も自分が愛されているのだ」
ということを受け入れるとしたら、
そうやって外側に向かって攻撃したり文句言ったりっていうのができなくなるんだ・・・と感じた。
そやからどうしても自分が愛されとるなんて受け入れとうなかったんじゃ、
と感じた。
外側に攻撃すべき改善すべき何かがあるから、それが攻撃されて正されるまで俺は愛されないし愛なんかないと証明したかった、言い張りたかったんじゃ、と。
彼らの真の姿によって、自分こそが愛されてるんだ、と受け入れることは、
その主張をあきらめるような、攻撃をあきらめるような、負けを受け入れるような、攻撃する主体的な俺っていうのをあきらめるような、、そんなことのように感じられた。
それはいやな感じもあるけど、いい負けのように感じた。
そのあとワクチンパスポートのニュースを目にして(完全に計画どおりやんけ!)、
いよいよワクチン打たんと海外に行けんようになるかも、
もう二度と海外には行けんかも、
という思いが湧いてきた。
自分にとって海外に行けん、台湾にもベトナムにももう行けんとなったらかなり人生終わるわ、、みたいに感じる。
でも、これについても、「このような状況にした敵たち」をみるのではなくて、
彼らの真の姿によって「愛されていることを受け入れなさい」、
という言葉を自分にかけてみる。
すると、やっぱり自分は「自分にとっての幸せのためにはこれが、この形が必要なんじゃ!」と言い張ろうとしてきたんじゃな、、、、
それをあきらめるということなのか、、、、
その言い張りをやめて、その代わりに今完全に愛されていることを受け入れること、
その「今」にすべてがあることを受け入れるっていうことなのか、、、
この前ちょっと話していた
「偶像が与えてくれると期待しているものを、もう望まないことにする」
というのはこれほどまでのことなのか、、、
というのが感じられてきて、
なにひとつ未来に期待しない、ということなのか、、、(自由に海外に行けるという期待さえも)、、
今この瞬間愛されていることを受け入れることだけ、なのか、、、、
それだけなのか、、、、
と、ちょっと茫然としている。