聞いて従うこと
なみえさんと平安へのツールをやらせてもらえて、
そのなかでみせてもらえたことがめっちゃありがたかった。
メモ。
ガイダンスについて、聞いた結果に期待していたんだな。
この知覚世界が自分にとってよくなるため、みたいな期待をもってたんだな。
それは重要じゃなかったんだ。
この世界のことはまったくわかってないんだ。
何がほんとうに自分のためになるかもわかってない。
それなのにこうなったら俺にとっていいんだ!という主張をもっている。
ガインダンスもその文脈のなかに押し込めようとしていたんだな。
でもガイダンスを聞くその内容はぜんぜん重要じゃない、それでこの知覚がどうなるとかはまったく重要じゃない、という感覚がすごく自由を感じさせてくれる。
聞く、ガイダンスをたずねることの意味はそんなところにあるんじゃなかった。
聞く、たずねて従う、そのことそのものだけに意義が、救いがあるように感じる。
聞いて従うことだけに意義がある。
それをしていないとき、つまり自分で、この知覚の領域内で実際には実在しない「外側」に「対処」しようとしてるとき、そうすることによって「(この知覚のレベルの下で感じている)無価値感罪悪感は本当なんだー!!」という主張をし続けていたんだな。
聞くことは、その主張をとりさげたいという意欲のあらわれ。
聞く内容にはそんなに意味がない。
この知覚のレベルの世界のなかでの具体的なことをとおしてたずねるわけだけど、
どこか、
聞いた結果(ガイダンスの内容)を自分で重視しているところがあった。
どこか、ガイダンスの結果によって、
この知覚世界が自分にとってよいものになり、そのことでこの知覚レベルの下の感情レベルに押し込め続けている動揺や、そのさらに奥の信念をみないで済むようできる、、、そのことを目的としていたところがあったんだな。
そういうふうに聞いていた。
でもこの知覚レベルがガイダンスの結果どうなるか、というのは本質じゃない感じがブワっとやってきた。(すごく自由を感じる)
そうじゃなくて、
自分でこの知覚の世界をどうにかしようとしている、という形であらわれている
「自分の無価値感罪悪感は本当なんだという主張」
を取り下げること、
つまりそれがたずねることであり、
そのこと自体にのみ意義があるんだという感じがした。
「私が誰かや何かに動揺するのは、その彼らや何かが、私が気づかないようにこの知覚世界の下に押し込めた信念と感情を心に映し返しているときだけ、です。」(平安へのツールより)
ずーっとこの知覚レベルの下の感情レベルで動揺を感じてるのだけど、それを見ないふりをしている。
でもたまに知覚の何かがそれを反映して、動揺が上がってくる。
(知覚に動揺するのは、押し込めている純粋な動揺をその知覚が映し返しているときだけ)
聖霊に聞いて従うということだけが、
この感情レベルに温存し続けてきた無価値感罪悪感を意識にあげて
さらにそれが本当ではないことを教えてもらいたいという意欲をあらわす。
それ以外の、この知覚世界の中で自分で考えてどうこうしようという行為はすべて、
「(奥におしこめて普段感じないようにしてる)この無価値感罪悪感が本当なんじゃ!じゃけえこの知覚に逃げ込んでこの知覚世界をええ感じの世界にして、この知覚世界でええ感じにならんといけんのんじゃ!」と主張しているということ。
「この世界の誰かや何かに対して、責めたり恐れたり動揺しているとき・・・
それはこの知覚レベルの下で感じ続けている動揺をみないという選択であり、
自分をこの知覚レベルに閉じ込めるという選択であり、
知覚レベルの下で感じ続けている無価値感罪悪感を、それが真理で正当化できると主張するという選択なのだ。」
そう、知覚のなかの何かに動揺するとき、私はこういうことを「選択」している。
聞いてなくて自分でやろうとしてるとき、「この知覚レベルの下で感じている無価値感や罪悪感が本当だ!」と主張することを「選択」している。
これらは確かに悪じゃないけど、
それをしているとはこういことなんだ(聞かないとは、知覚に動揺するとは、こういう選択をしてるということなんだ)、ということを自分に覚えておかせたいと強く思います。
それを覚えておくことで、自ずと、たずねることにしか自分にはメリットがないと感じられてくるんだと思う。
聞くことだけが、聞いて従うことそのものが、この状態からの脱出になる。(聞いて従った結果この知覚世界がどうなるかではなく。この知覚世界について、私にはまったく何もわからない。)
この知覚世界がどうなるかについて無数の期待をもってるけど、それを持ち続けるよりも、それら一切を手放して聞いてたずねて従うことそのものだけに救いがある。
「偶像が与えてくれると自分が信じているどんなものも、自分は望まないことにする」(奇跡講座30章セクション4段落6)