リビングミラクルズのオンラインリトリートから
リビングミラクルズのオンラインリトリートで話されていたこと、感じいったところのメモ。
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イエスは磔刑をとおして、「今の私たちの人生における実践的な意味で」何をみせてくれているのでしょうか?
あなたが動揺(upset)するときはいつでも・・・・それがあなたにとって、心を舞台にした「磔刑」です。
形のレベルにおいて、何か私たちにとって「正しくないこと」が私たちにふりかかっている、という意味づけをしてるとき・・・
たとえば、虐待、無視、見捨てられる、裏切り 、といった言葉で表現されること。
あるいは
「私は正当に扱ってもらえていない」
「今よりももっと良い扱いを受けるのが私にはふさわしい」
といった思い。
これらすべてが磔刑です。
こうした見方のなかにはほんの少しの真実も含まれていません。
ジーザスは心の癒やしと内なる自由を求め祈っている私たちのために、
私たちの疑問や祈りに応えるために、非常に強力に今ここにいっしょにいてくれています。
(質問へのコメント)
ボスや、両親や、その他「力をもつもの」によって「私」が拒絶される。
そしてそれによって「大きな危険が迫っている」と感じられる。
(神から拒絶され天国から追い出されたかのように)
このシチュエーションはまさにこの世界そのものであり、この世界の有り様そのものです。
自我を信じるとは、磔刑を信じることであり、死を信じることです。
その「危険だ」という感覚、それに関連する恐怖という感覚は、自我に関係しています。
心理学者のなかには「恐怖という感情は私たちの役に立つこともある」という人もいますが、決してそんなことはありません。
恐怖は決して私たちの助けにはなりません。
恐怖は自我によってでっち上げられた感情であり、愛を否定する感情です。
恐怖のどんな側面も、私たちの助けになることはありえません。
同じことが罪悪感についても言えます。
「よい罪悪感」「よくない罪悪感」みたいなものはありません。
罪悪感が私たちの助けになることはありえません。
罪悪感が輪廻転生を生じさせます。笑
罪悪感は常に「誤った自己概念」を強化します。
イエスが昨日の映画のなかで示してくれたように、
もし平安を望むなら、
私たちは創造主について、ガイダンスについて、源について、この世界の目的について、確信をもつようになる必要があります。
なぜなら私たちがこの世界の目的について確信がなく疑いを持ち続けている限り、
この世界の中に、私たちに平安をもたらす何かを探し続けることになるからです。
この世界のなかには、私たちから平安を奪い取ったり、あるいは私たちに平安をもたらしたりできるものは何ひとつありません。