ひざまずいてすがる。

「目覚める」ということを言葉にしたのは自分にとって新しいことだった。

どうすればいいかわからんけど、ただ、
「内にも外にも憎悪も罪もありえないと認識したい」
「罪や憎悪が本当ではない世界に目覚めたい」
と強く思って、
そこに一致したいと思った。


今日晩ごはんをスープストックトーキョーで食べようと思ってレジに立った。

そのときに対応してくれた店員さんに度肝を抜かれた。

若くて、そんな美人でもないのだけど、
ハートから湧き出すようなあたたかさ、
そこから自然に発出されるあたたかみのある笑顔。

ハートフル、ハーティッド、ハートから湧き出ている・・
そんなような言葉がかけめぐった。

このあたたかさを、私は心の底から求めてると思った。

と同時に、
常に何かを攻撃しているような傲慢な「私の」生きるモード、私が知っとる生き方というのは、
本当に救いようもなくこのあたたかさに触れないものになってしまっているというのを実感せざるをえなかった。

私がどうあがいても、このあたたかさには触れられない。
「私の」生きるモードは、どうしようもなく表面的な乾いたものになってしまっとる。

もしこのあたたかさを求めるなら、
私はもう、かんっぜんに引っ込むしかない。

この「私」で生きようとしてる限り、このあたたかさには触れられんのんじゃ、
わしは完全に引き下がるしかない。

そう感じられた。

私の内側から、彼女に見たようなハートからのあたたかさというのが発出してほしい。

それが生きるということのように感じる。

そのためには「私」は完全に引き下がって無になって、神、聖霊にすがるしかない。


今まで「引き下がる」という言葉は何度も聞いてきたように思うけど、
こういうことなんか、と感じた。

ここまで絶対的に必要なことだったんか。

 

思い出せるできる限りいつも、
心のなかで、ひざまずいていたい。

私はあのハートの奥底から永遠にひろがっていくような、いのちのほとばしりのよろこびを求めます。

どうかそうありますように。