ラファエルに長いメッセージを送ったあと、反応がないことに動揺を感じた。
以前よくあったような、馴染み深い感じの動揺。

これはラファエルをとおしてあらわれるスピリットに、
自分の失敗、いたらなさ、あやまち(罪)を「見通されている」ことへの恐怖だというふうに感じたけど、

見通されてるだけで、別になにも攻撃されているわけではない、と思い至ったとき、
この動揺はこちらからスピリットに攻撃を仕掛けてるだけのことなのか・・と感じた。

 

あと、
「どうにかこうにか道を歩んでいるように見えても、結局最後はスピリットに罠をしかけられて決定的なダメ出しされるんや!もう嫌や!」
という青森のときと同じような感じも感じられた。

けど、これもコロナ騒動について教えてもらったように、
こういうのを自分が必要としていて外側に見たいと思ってこういうのを見てるんやという感じがした。

スピリットに近づいていっても、ちゃんとそこから逃げて引き返せるように、
こういう経験を自分が求めて用意しとる。

 

そして今は何よりも、どんな感情・動揺が上がってきても、
それにたいするこたえ・解決(どうやって解決されるのか自分にはわからなくても)が
ガイダンスやファンクションというかたちで与えられていると信頼できて、
そこに耳を傾ける選択ができると感じられるのがありがたい。

 

そしてどんな感情・動揺を通り抜けることになろうと、
「俺は目覚めるんだ!自分は被害者にはならいない!」
という強い意志が内側にあることを確認することができる。


そしてやっぱり、
たとえばラファエルがいい感じの反応をくれて、
人間としてのラファエルとけんたの良い関係を作っていくとかには意味がなさすぎるというのも感じられてきて、
この感覚が救いのように感じた。

 

神・スピリットとの関係、神・スピリットがすべてだ、

私たちは人間として存在してない、人間としては映し出されただけのものだ、

ということを覚えていたい。

そしてあらゆる恐れや闇の感情を仲間たちと力強く通り抜けていきたい。