外に憎しみを向ける必要性
ラファエルの返信をみたとき、一瞬にして「上から見下されている」という知覚解釈が起こって怒りがわいた。
それについてはどうしたものかと思いながらそのままにしていた。
その後、リアルタイムで勉強会を聞いていると、
のりこさんがラファエルに「I hate you」と打ち明けたときにお互いゆるんだという話がでた。
その話を聞いたとき、
自分のなかにラファエルを憎んでいる部分、憎しみをぶつけている部分があったこと、
そしてそれに触れないように気づかないようにしていたことに気づいた。
それに気づいて認めることが、すごーーーーーーい広がりの感覚をもたらしてくれた。
どこまでも広がれるんだ、という感じ。
何も押さえつける必要はないんだという感覚。
その憎しみに触れずに隠している間は感じられなかった広がりと自由の感覚を感じた。
そしてこの憎しみを抱いている部分も、
やむをえずそうなっていたり、その憎しみが私に降り掛かっているわけではなくて、
わたしがそういうもの(憎しみを外側に向けること)を必要としてこのような経験をしている・・・
・・ということに思いを馳せてると、どういわけか、
ラファエルだけでなく、
世界全体に見ているその必要性(憎しみや攻撃の対象を必要としていて、それをもとめて世界をみてること)がありありと感じられてきた。
ああ、こんな知覚からはほんまに自分では出ようがないわ、出口がわからんわ!
と感じた。
こっから出るためにガイダンスが与えられていて、
だから毎瞬きくしかないっていうことなんじゃの、、と思った。