罪を犯したという信念

主よ

わたしは罪を犯したと信じています。

自分の仕事のことで。

これを浮上させる機会をありがとうございます。

これから逃げずに、あなたと一緒にこの中に入って通り抜けていきたいです。

その上で祈る、「私は真に助けとなるためだけにここにいる」

自分の罪を信じてると認めた上で。

すると今までは自分の尺度による「助けとなる」というイメージをまだまだたくさん持っていたことに気づいた。

罪のないええ感じの自分が何らかの形で助けになり得るんだ、みたいなイメージをもっていたことに。

カマトトぶりながら。

それが、
この「罪ありと信じている自分」がどう助けになろうとしたところで、自分の尺度のなかではそんなの不可能でしかありえないと感じられてきた。

どういった形で助けになれるなんていうんだ!

その形もさっぱりわかりません。

ですからこの祈りの言葉を、完全にあなたにまかせ、捧げます。

私は自分の罪を信じてしまっている。

罪がないなんてこと、私にはわからない。

ですからあなたに尋ねます。

本当はなんなのか。

 

仕事のことで感じた、自分に罪があるという信念。

これがきっかけで、外側に向けようとしてきた罪(ワクチンやコロナ騒動、カープなど)を、

自分自身のなかにある罪(という信念)として見れるのは恩寵だと感じた。

罪を内側にみてることに気づいているとき、外側のワクチンやカープに注意を向けるのがいかに欺瞞であるのかが感じられる。

ありがたい。

少し大人になったような。笑

そしてこの罪の信念が自分の内側にあるのを認めた上で、主に祈る。

これについて本当のことを教えて下さい。

ちなみにカマトトをやめると、 外側の何かに向けているこうであってほしい、こうあるべきだ、という要求が取り下げられる感覚があって、 この世界の振る舞いにおいても自由度が上がる感覚があった。

ありがとうございます。