自分への慈しみ

じゅんこさんの回の勉強会で教えてもらえたこと。

神はよくやってるね、としか言わない。

まだまだだよ、とか、もっと努力せんといけんよ、とかは絶対にいわない。

わたしを慈しんでいて、愛を受け取って欲しいと思っている。


その神の意志に一致して
自分でも自分自身を慈しみ、自分自身が愛を受け取ることに同意すること。


自分ではぜんぜんやれてなかった。


今回試しにやってみると、何か自分を満たすものが入ってくるのを感じた。


そして
その満たすものが、「ない!ない!」っていっていう欠乏感から中毒に走ってたんだな、と感じた。
中毒=自分なりの(自我の)救済計画、攻撃の必要性、外側に攻撃対象を見る必要性に。

 

自分が自分に慈しみを与え、
すでに与えられている神の愛を受け取ることに同意すること。

そのなかで安らうことを自分にゆるすこと。

これがあらゆる中毒をやめていく鍵になるような感じがした。

 

そして、次の日あすかちゃんとこれについて話してるときに、
このこっぱずかしくてやりとうないこと(セルフハグして自分自身を慈しむこと)が、
実はかなり決定的なことなんでは!?という感じがしてきた。

これをせんということは、
これをせんままこの道を歩もうとするということは、

のりこさんが言っていた通り、
(わたしを慈しみ、愛を受け取ってほしいと思っとる)神の意志に反対し続けたまま、「救われよう救われよう」と自分の力であがこうとすることにしかならんということ。

ブレーキを踏みつつアクセルを踏みこむみたいな。

不可能なことをやろうとしとることになるんじゃないか。


これをせんということは、
自分を慈しまず、神の愛を受け取ろうとせんまま、
自分独自の力、自分独自の気づき、自分独自のノウハウ、自分独自の分析でなんとか救いに到達しようとしとることになる。

自分で自分を慈しむというのはそれとは全然違っとって、
自分独自のものではない、神からの愛、自分が何もしなくてもふんだんに与えられとる神からの愛をただ自分にゆるすということ。

「自分独自の手応え」みたいなものは何もない。

ただ与えられとるものを受け取るだけ。


これを自分にゆるすことは、ひとつだということに戻っていくこと。

これを自分にゆるさんってことは、引き続き分離方向へ向かって必死で漕ぎ続けること。

それくらい決定的な方向性の違いの現れなんじゃないかと思った。

セルフハグしながら自分を慈しむことをゆるすか、ゆるさんかということは。