神の愛しか存在しない

勉強会の前に、
よくやる祈り

「わたしは真にたすけとなるためだけにここにいる。・・・」(奇跡講座2章.セクションV.18:2-6)

というのを祈った。

そのあと、これも祈りたいと感じて、

「この勉強会の時間で、わたしのなかにある愛に対する障壁が、今できる限り最大限取り除かれますように」

と祈った。

ありがとうございます。

祈りのこたえをすぐに与えてもらえたように感じた。



録画を何度も聞き直したいと思う。

のりこさんが話してくださった聖霊のことばのすべてがありがたすぎた。


噴出する肉欲。

わたしは神の愛をこうして歪んだかたちにして求めようとしてる。

それは悪いことではないし、罪でもない。


だから聖霊といっしょに、

セルフハグして神の愛を今できる限り受け取りながら、

本当は神の愛を求めていて、
それを歪めてこういうかたちにしてるんだと思い出しながら、

隠さず完全にできる限り存分に浮上させて、
そこにそういう形であると歪めて求めている、神の愛を最大限受け取りきる。

そして自分が本当に求めている神の愛を、
こういう形に歪めて受け取ろうとしとるんじゃともう一度思い出す。


これに限らず、
すべてが、
自分を含むすべての人のすべての罪のようにみえることすら、
神の愛を歪んだかたちで求めようとしとるだけなんや。


どういうわけか、

「神の愛しかないんだーーー!!!!!!」

と、こころが歓喜しているのを感じる。

神の愛でないものは存在してないんだ、、というよろこび。

 

神の愛ではないうしろめたい快楽を隠し持っていて、
それを神から隠し続けないといけない、、、

とやってたんだな。

 

でも神はそこにも完全に罪をみていない。

カースティンとフランセスにそのように言われても、
自分がそれをまったく受け入れていなかった。

「罪あり」という領域にキープしておきたかった。


その欲望欲求をあますことなく浮上させながら、
本当にそこにも罪はないんだということを、
聖霊といっしょに見ていきたい。


本当に、神の愛しか存在しない。