静岡〜石川〜新潟の旅①

 

 

すべて書かれている。
全部つながっている。ひとつとして。

 


「今回の撮影は熊野・伊根の舟屋の旅のようにみんなで行く感じがする」と、のりこさんがインスピレーションを受け取ったこと、

このメンバーで行くことになったすべての流れ、

あのときにあの独特な駐車場の中華レストランに行くことになったこと、

車の移動場所についてじゅんこさんがインスピレーションを感じて、
それについてシェアしてくれたこと、

それをうけてラファエルがSさんの話をすることになったこと、

場所はそれほどよくないはずなのにあの宿が選ばれたこと、

雨が降り続いて2日目にあの宿でエクスプレッションすることになったこと・・



まだまだ無数にあるだろう、そういったあらゆる「はからい」によって、

今回「けんた」をとおして体験された奇跡や恵みへと繋がれていったようにみえる。



その計画について「けんた」は何もしていないように見えるけど、
もしかしたら「けんた」も含めた皆の祈りの結果ともいえるのかもしれない、、、

・・とか思うと、本当に私たち人間としての意識には到底、この全体像をつかめそうにない。

まじで圧倒的に私たちにはわからない。

 

聖霊のはからいの全体像についての圧倒的なわからなさを今回こうして実際に見せてもらえたことには、

とても広がりを感じる。

まじで私個人の視界なんて何も見えてないに等しいんだ。

それぐらい、聖霊の視点というのは莫大なひろがりをもった巨大なものなんだ。

 

その壮大さ・巨大さを感じられるのはありがたいし、
(自分に見えているあらゆる限界が、本当に真実ではないんだ!と教えられている感じがして)安心な感じがする。

 

 

 

 

 

旅のはじめ、三保の松原での撮影まで、

表面的な意識の上では(今振り返ると)

「おれはまあまあやれている」
「順調だ」

といったマインドを持っていたと思う。


それがあの独特な駐車場の中華レストランに駐車したのをきっかけに、

自分のなかにあった
ファンクション中の運転で過去に立て続けに車をクラッシュさせたこと、

そこからくる運転への自信の欠如、

「うまくやれる者」でいることができないという
巨大な罪悪感が浮かび上がることになった。


「なんでこんなことで??」っていうくらい、

運転の自信の欠如というトリガーが不釣り合いに思えるような
強大な罪悪感を感じ始めた。


その中で、


「失敗しないように、うまくできてるように見えなければ。見せなければ。」

「うまくできない、やれないとしたら、そんな俺は超絶罪深い」

そのときは意識できていなかったけど、
完全にこのような思考と恐れのもとに動いていた。

行為者として。

 


「形としてうまくいかせる」という結果をゲットする切迫感を感じて、
うまくいかせるためには車の駐車位置をなおしたほうがいいと考えた。

でも1人で移動させにいくのは違う感じがして、
じゅんこさんに手伝ってもらえるように頼んで、
いっしょに行ってもらえることになった。

 

 

そのときの自分は完全に行為者で、恐れから車の位置を移動させた。

そしたら移動させた場所は本来駐車してはダメな場所だったらしく、

お店の人がでてきて「そこはだめだよ!」と言われ、
結局また移動しなおすことになった。


そんなわけで再度移動させたわけだけど、
そうやって駐車しなおした最終的な場所について、

じゅんこさんは最初に「そこだ」というインスピレーションを感じていたこと(でもそれをその場ではっきり言えなかったこと)を後で皆にシェアしてくれた。

 

そのシェアを聞いたとき、

「じゅんこさんはそうやってインスピレーションを聞いて受け取っていたのに、

俺はといえばまったく聞こうともせずに、
恐れのなかで行為者として『俺がやる』と行動してしまっていたんだ!!!

なんてだめな、聞けないやつ!失敗者め!」

というような恥の思い・感情がわいてきた。


そしてそうやって感じ始めた恥の思い・無価値感は、
じゅんこさんのシェアを受けてラファエルが話した話を聞くことで、
何千倍にも巨大化して感じられることとなった。

 

 

その話。

メキシコのコミュニティで重たい彫像を移動するファンクションをやっていたとき、

ラファエルはSさん(ラファエルのマイティコンパニオンの1人)が「行為者」としてやろうとしていることに気づいていたのに、はっきり言わなかった。

その結果、Sさんは彫像をクラッシュさせることになった。

またその後、ラファエルが管理していた車をSさんが運転させてくれと言ってきたときにも、ラファエルは同じことを感じたけど、今度もはっきりと言えなかった。

その結果、Sさんは車をクラッシュさせることになった。

 

この話をきいたとき、

Sさんが置かれたシチュエーションの
あまりのいたたまれなさを想像し
(どうしてこんなことをしでかしながら、Sさんはコミュニティに居続けられるんだ!??)、

さらに自分はまったくSさんと同じなんだと感じた。

(じゅんこはラファエルのように気づける者で、けんたはSさんのように「気づけない行為者」で、車をクラッシュさせる)

 

 

聖霊に耳を傾け、よく気づき、聞いて従い、ただしく退いてBe Done Throughでことをなす」のが正しいとされている(と思ってる)道において

「まったく聞けず、『俺が俺が』と突っ走ってるくせに『やれてるつもり』になり、最悪なことに物理的にも何かをクラッシュさせてしまう」

という完全な落伍者・失敗者・ダメな者。

 

それが自分だったんだ・・・・・・・。

 

 

 

この認識と、そこからくる深い無価値感に、
じわじわと、どんどんどんどん深く飲み込まれていく知覚がおこっていった。

 

まじでダメじゃん。

ここにいちゃダメなやつじゃん。

 

その後食べ終わって宿まで帰るときも、
何か感情が上がっているけんたは今運転者としては危険だからということでのりこさんに変わってもらうことになった。

そこから無価値感がどんどん増幅していって、

無価値感のなかで身動きがとれなくなっていった。

何かすこしでも自分が物理的に動くと、
自分の無価値さが外側に露わになっていくような感じがして。

目を開けることすらできなくなった。

宿へのナビゲーションも含め(本来であれば助手席に座った自分がやるべきこと)、
そこからみんながファンクションをしているのにまったく動けない、
ファンクションもできないやつになってしまった。

そのことも、自分の無価値感を際立たせることになったけど、

だからといって形だけファンクションをやることにもまったく救いも解決もないような感じがして、

身動きがとれず、地獄でしかなかった。

(ちなみにこの間、ずっとあるイメージにたすけを求めていた。またいつか書いたり話す機会があればそれについて触れたい)

 

 

夜、宿の外に出て、しばらくずっと、ひとりで呆然としていた。

時間がたつにつれ、すこしずつ何かを祈り始めたかもしれない。

本当にどうしようもない苦しさを感じて、地面にひざをついてあたまを地面につけて祈るときもあった。

(そうすると少し楽になる感じがした)

 

そうしてたすけを求めているうちに、

最終的にひとつの祈りに触れることになった。

 

これまで何かをする前とかに祈っていた、

コース第二章にある「私は真のたすけとなるためだけにここにいる」という祈りから派生した祈りだった。

 

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わたしには、この悲惨なこころのどこに救いの可能性があるのか?まったくわからない。

 

この「悲惨な失敗者」ということしか見えてないわたしのこころ全体、まるごとそのままを、

全体である「わたしというひとつのこころ」にとっての真のたすけとなるためだけに使ってください。

 

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(この祈りに触れたときの思考として、
本当にこんな悲惨な自分のこころがどうすればひとつのこころのために真のたすけとなりえるのかまったくわからない、

でもじゃあ、
たとえ最悪の例として、悪い例としてでもいいから使ってください、というのがでてきた。

たとえ悪い例としてでも、全体であるひとつのこころのどこか別のパートのたすけになるのなら、
その結果がこのわたしというこころにもたすけとして戻って来ることになるから。)

 

 

このように祈れたとき、

はじめて苦しみがやわらいだ感じがした。

 

この悲惨なこころを自分ではどうすることもできない。

でもこのぜんぶ、このこころのぜんぶを、たとえ悪い例としてでもいいから、全体である「わたしというひとつのこころ」のために使ってください、と祈ることはできる。その自由はある。

それを止める権利、お前にはそれを祈る価値はないと止める力はどこの誰にもないことだけはわかる。

誰が何と言おうと、仮にデイヴィッドやカースティンやフランセスやのりこさんやラファエルが何と言おうと、周りがどうであろうと、お前はこんなにもできてない失敗者だからその資格はないとかなんとか言おうと、わたしがこのように祈ることは誰にも止めることはできない。

それがとてつもない救いのように感じられた。

 

そしてもし「わたしというひとつのこころ」にとって真のたすけとなるために使われるのであれば、

それは今悲惨さしか見えていないこのわたしのこころにとっても真のたすけということになる。

 

まったく失うものがない。与えられるものしかない。

 

この祈りに触れることができたことにホッとして、

まだ呆然としたままではありながら、この祈りのなかで床につくことができた。