マイティコンパニオン

 

ファンクションについて、
れいさんとミーティングしようとなった。

zoomでつながって初めに祈ったとき、
自分のなかでは、このファンクションをかたちとしてうまくいかせよう、
という方向に意識が向いていたことに気づかせてもらえて、

まず最初にそのことについてシェアさせてもらった。

そして「やっぱり、何においても、愛への自覚を阻んでいるものを浮上させて開放させていくという目的を忘れずにいたい」というようなこともシェアさせてもらった。

 

するとれいさんに「撮影旅から帰ってきて、どんなふうだった?」と聞かれた。

それで、
今までになく、リトリートや撮影旅のときと変わりない「本当に聞く姿勢」みたいなものが日常にも入ってきてると感じていて、運転時に味わった一瞬一瞬イエスにたずねて動きが決まっていくような感覚を感じるときもあること、

それと同時に、そんななかでも行動としては以前と同じような時間の使い方(エロ映像をみたりカープの記事検索など)もしてること、などを話した。
(それについて話すのは嫌だったし恥を感じたけど、話すしかない感じだった)

 

でも総じて、旅から帰ってきてからの自分の状態はいいもののように感じていて、それを伝えたいと思いながら話していたと思う。

 


話し終わると、今度はれいさんが自分のことについてシェアしてくれた。

その内容は、
今もあのときの奇跡が続いている感じで、感謝の中でイエスに包まれているような状態が続いている、というものだった(自分の記憶なので不明確です)。

 

れいさんのそのシェアを聞いたあたりから、
自分のなかに

れいさんと張り合う思考・感情、
おれのほうがより多く癒やされんといけん、
お前はずっと沈んどれ!お前は癒やされんな!

みたいのとか、


れいはずっと奇跡のなかに居るという「理想的」な状態でただしく過ごしとるのに、
けんた、お前は相変わらずエロ画像とかみて何やっとんじゃ!

みたいな比較の思考や自己攻撃みたいなものがどんどん上がってきた。

 


その思考感情についてれいさんにシェアさせてもらった。

 

そうやって、上がってきたものをシェアしていたとき、

なんというか、これまでにないような開放感を感じながらシェアしていた。

開放感、力がみなぎってくる感じ、うれしさを感じながらシェアしていた。

 

 

じゅんこさんが何度かシェアしてくれた、
のりこさんやラファエルの打ち明けをきいたときに感じたという

「それをシェアしてくれてありがとう〜〜〜!!!!」
「それを聞けてうれしい!!!」

というよろこび。

あれってこういう感じなんかな、と思った。

今のケースは、自分でシェアして、自分でよろこびと開放感を感じとるんじゃけど。

 

 

そのあとれいさんが何かしゃべった。

 

するとそれだけでまた同じようなのが上がってくる!上がってくる!



そしてまたその上がってきたものについてシェアする。

するとまたシェアしながら開放感とうれしさを感じる。

 

そのあとまたれいさんが何かしゃべる。

するとまた同じようなのが上がってくる。

またそれについてシェアする・・・・


こういうのを何回か繰り返すことになった。

 


こうして毎回上がってくるものをシェアするとき、
どういうわけか、毎回めちゃくちゃすごい開放感が感じられた。

上がってくる文句・不満・攻撃の思考感情、
それらはでてくることはでてくるんだけど、
ただでてくるだけなかんじがして、
ちゃんと口に出して表現してあげると光に消え去っていく感じ・・・。

本当に消え去るために出てきてるような感じで、
それらを口で表現しているあいだ、
その背景にひろがっている「なにか」の広さ・大きさ・うれしさにどんどん開かれていく感じだった。

 

ただ、本当に無尽蔵かと思えるくらい、
不平不満みたいなもの、「やみ」は、でてくる、でてくる。


上がってくるものについて話さずにだまっていることを想像すると、
とてつもなく滞ってしまう、重くなる、すべてが止まってしまう・・
そんなように感じられる。

そうじゃなくて、
こうしてあがってくるものについて表現させてもらっていると、
その表現することそのものがすごくよろこびにみちてる感じで、
しゃべりながら開放感とよろこびが感じられる。

 

 

そうやっているうちにこんなことに気づけてきた。

自分のなかにれいさんにたいする根深ーーいさげすみがあって、
それをずっと固定したものとして持ち続けてきたということ。

それを前提に張り合っているので、
れいさんが癒やされることがゆるせん!みたいな思考が
その前提から上がってきとるように感じた。

そしてこの「さげすみ」みたいな前提が、
ほんっっっっっとうに愛の自覚への障壁となっていることが、
これまでになくありありと感じられた。


それを今こうしてマイティコンパニオンとの関係のなかで
浮上させて開放させていけることは、ありがたすぎる。

 



もうひとつ気づいたのは、
最初に「帰ってきてどうだった?」とれいさんに聞かれてシェアしたときは、

「けんたは今、これこれこういう状態にいるものなんです」

みたいに「ある一定の者」として捉えようとしていて、
それを説明しようとしていたように感じた。

それにたいして
この上がってくるもの(いわゆる「やみ」)をただただ表現させてもらっているときは、
そういう固定した「者」というのはいない感じがして、
ただただ上がってくるものが解き放たれたあとに残るであろう
めちゃめちゃ大きなスペースのようなもの、広がりが感じられて、
それにたいしてうれしいと感じていた。

 


今までも、例えば去年の三崎口とかで、
相手にたいして「やみ」を告白するという形は起こったことがあったと思うけど、
随分重苦しいものだったと思う。

今回のはまったく比較にならないくらい軽くて、
しかもエクスプレッションしてるとき、その表現そのものに開放感とうれしさが感じられた。

 

何が起こってるのかわからない。


ただただ、
このような経験をさせてもらえるんだなー、、、
これがマイティコンパニオンなんだなー、、、

と、しみじみとありがたいと感じられた。


本当に、ありがとうございます。🙏🙏🙏