静岡〜石川〜新潟の旅②

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悲惨さしか見えてないこのわたしのこころの全部、存在のすべてを
(たとえ悪い例としてでもいいから)
全体である「わたしというひとつのこころ」のためだけに使ってください

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この祈りに触れることができてから、
こころの奥底ではほっとした感じを感じていた。



そのおかげもあって、
翌日目が覚めてから、少しずつファンクションに参加させてもらえるようになっていった。

こんな状態でも、扉の取り外しなど、ファンクションを与えてもらえるのがありがたかった。

瞳孔は開いて呆然としたままで、
誰とも目を合わせられないどころか、
目を中心とした半径50cm圏内にも視線をやれないくらいだったけど。

 

 

そのようにして、
エクスプレッションセッションの撮影が始まった。

冒頭ののりこさんの言葉を聞きながら、
なぜかわからないけど涙が流れてきた。

それから、
自分が感じている無価値感と、
今こころにある祈りに至った経緯をエクスプレッションさせてもらった。

 

こころにあったものを
こうしてみんなの前で口を使って表現させてもらえるだけで、
あの祈りに触れて以来こころの奥底で感じていたほっとした救いが
この自分が生きている物理次元にあふれてくるような感じがして、
すごくホッとする感じがした。

 

 


そのあとじゅんこさんがシェアしているとき、
そのなかで
「闇が上がって何もできなくなっているけんたにまつわって怒りを感じていた」
という内容のことが話されていた。

自分のなかにも、
無価値感で動けなくなっていたときに
きっと周りの人からいろんな思いや感情を向けられてるんだろうな、
という心配、不安、恐れがあった。

でもじゅんこさんのそのシェアをきいたとき、
ぜひともその怒りについてくわしく教えてほしいと思った。

 


それをはっきり受け入れたいというか、
逃げたくないというか、
それがあっても、それを聞いても、完全に大丈夫なんだということを体験して知りたかった。

だから詳しく聞きたいと思ったし、聞いても大丈夫だという感じもしていた。

 

それを伝えると、じゅんこさんはその怒りについて、
どういう状況でどういうふうに感じて怒りがわいてきたのかといったことを詳しく話してくれた。


それを聞けて、やっぱりありがたいと感じた。

 

それは問題ではないと教えてもらえたような。

 

 

そのあとのりこさんの促しもあって、
じゅんこさんと目を合わせて話し始めた。

人の目を見て話せたのは前日の中華レストラン以来だったと思う。


そのときはまだ無価値感のなかで呆然としている部分もあったので、
じゅんこさんの目の中に無防備にひろがっていくという感覚にはならなかったけど、
目を見つめながら、おだやかな、やさしい感じを感じていた。

そして「信頼」ということばがじゅんこさんをみつめながら浮かんできた。

 

 

このプロセスをとおして、たぶん多くの癒やしが与えられたのだと思う。

自分ではよくわからないけど。


でもじゅんこさんと目を見て話したあと、
ひとつの何かを通り抜けた感覚と
またファンクションに使ってもらいたい、という感覚を感じていた。