悲劇のヒーローとして心を閉じるか、 金の大皿にのせて捧げるか。
レイさんをとおしてファンクションに参加している他のメンバーの声を聞かせてもらったとき、
最初動揺を感じ、
でもプライベートな心がないんじゃとしたら、ぜんぶ、すべて、誰かのものや自分のもののように見える思考も感情も全部浮かび上がらせるしかないよのーーー、
と思い出しながら、
ただただ感情や思考を浮かび上がらせていると、
自分の中にひとつのパターンがあるんだなあ、というのが浮き上がってきた。
自分を特別視して、
悲劇のヒーローに仕立て上げ、
心を閉じながら被害者意識をもつ、というやつ。
こういうパターンが滲みでとったから、
他のメンバーやファンクションそのものにたいしても心を閉じつつあったんだな、というように感じた。
それを今こうして、
起こっている(ように見える)ことを表にあげてもらえたことがすごくありがたいと感じた。
こういうパターンがあるなあ、と気がついたとき、
自分でそれを訂正しようとか、
こういうふうに感じない自分に、こうじゃない自分になろうとか、
そういうのが本当に無理で不可能だということを
少しずつ体験でわからせてもらえるようになってきてると感じる。
それで、ちょうど昨日ブログに書いていた
デイヴィッドの本の6章のエクササイズをやってみたら、とてもたすけになった。
この「問題」の本質が浮かび上がるままにして、
それを金の大皿に載せて聖霊に捧げる自分を見る。
すると、イメージとして、
なんか
ズタズタに切り刻まれた
赤ん坊?子ども?の自分の肉体を、
金の大皿に置いているイメージが湧いてきた。
(しょうこさんのブログで読んだ夢の話を思い出した。赤ん坊がなんかの儀式で首を切られて犠牲になるように見えるけど、本当は死なん、みたいな夢の話)
ああ、、、、
なんか、わかる気がする。。。。
うまく言葉でまとめれんけど、
こうして自分の本質を犠牲にしとったんじゃな、というような感覚。
自分の無垢な本質をズタズタにして犠牲にしたうえに、
あの「悲劇のヒーロー」ストーリーを成立させとったんじゃな、という感じ。
このイメージが湧いてきたのは、
とてもたすけになるしありがたいという感じがした。
この自分の無垢な本質を犠牲にしてまで、
あのストーリーが欲しかったんか???
いや、そんなわけないわ!
と、今感じることができる。
このようなことを意識にあげさせてもらえたことがすごくありがたい。
この自分でやってしまったと思ってることを、
こうして金の大皿にのっけて聖霊様に捧げます。
ありがとう。
ありがとう。
兄弟との関係だけでもあかんし、
ひとり内にこもって聖霊聖霊言っとるだけでもあかん。
両方があって、素晴らしく歩ませてもらえるんやな、という感じがした。