今こころにあること

 

「私たちは、『私は』という言葉を使い、『あなたは』という言葉を使わない」。

今3日連続でとどまっているレッスン165

「Let not my mind deny the Thought of God.」

the Thought of Godを否定してしまっているのは、他でもない、私のマインドにほかならない。

 

他でもない「私が」the Thought of Godを否定することで、今のこの眼の前の現実を経験している。

 

 

そんな知覚のなかにいるあらゆる人に、

平安へのツールの準備ワークを当てはめたくなる。

 

shingaheart.jimdofree.com

 

シェアオフィスにいる他の人たち。

幼いころからその勝敗に動揺しつづけているプロ野球の人たち。

「若くてきれいな女」というカテゴリーに閉じ込めている人たち。

記憶のなかにあるあらゆる人たち。

その人たちと、この私という人間。

 

 

自分というキャラも含む知覚のなかのあらゆる人に、

自分であてがった「キャラ設定」があるのを感じる。

 

そしてその設定のせい、ということにしている
深く押し込められた感情があって、

 

それぞれの設定のなかで「最善のこと」「最悪のこと」を想定して、

それを求めたり恐れたりしながら

未来に向かって生きている。

 

 

そうやってthe Thought of Godを否定した世界を維持しようとしているみたい。

 

 

そうやってthe Thought of Godを否定してしまったときの

形と関連のない、無形の絶叫的な絶望的かなしみや孤独感に目を向けなくて済むように、

未来の希望や恐れに向かって生きているのかな。

 

その無形の、形のない絶叫的絶望やかなしみに触れて、表に出してあげたい。

 

 

のりこさんの話のリンクが貼ってあった、はるかさんのブログの文章に教えてもらえた。

カタチの無い罪の意識があまりにも恐ろしい
これをカタチあるレベルに移し替えたいとやろうとする自分を発見することが大事

haru3o.hatenablog.com

 

 

 

 

そしてthe Thought of Godを否定しなかったら、どうなる?

 

the Thought of God なんて想像もつかないし、そんなものがありえるなんて可能性も今まで想像したこともなかったんだ・・と感じた。

否定をやめるだけで、そこにあるものなのか。

そこに開いていったらどうなるのか。

「私に想像できること」の完全に外にあると感じる。

 

 

the Thought of Godについて、知りたいです。

教えて下さい。