限界にぶち当たって、超える。

 

前回のブログで書いた、

「自分のマインドをフルにファンクションに与える」ということ。

 

welcomejwithintention.hatenablog.com

 

 


そこにあるのは「超えたい」、という欲求だな、と感じる。

 

あらゆる自己概念を超えたい。

身体という自己概念を超えたい。

 

 

「ファンクション(またはスピリットから来ている何か)に自分のマインドをフルに与える」(少なくともその意志をもつ)

ということは、

否応なしに「スピリットからのものではないもの」を浮かび上がらせることになると感じる。

 

前回ブログに書いて、その意志をもつことを意識しだしてから、
それをありありと感じ始めてるかもしれない。


ヒリヒリするような競争心とか、勝ちを確保したくてたまらない自己概念とか。

今までも折々上がってきたものだけど、
この意志をもつことに付随して次々上がってくることになりそうな予感がする。

 

そういうのがどれほど上がってきても、

「(スピリットから来ている何か)にマインドをフルに与える」という意志を持ち続けていれば、限界だと思っていた壁を超えられるんじゃないか、、という感じもする。

 


どんなものが上がってきても、それを保持し続けることで維持してきた(限界の)内側から、限界を超えて出ていきたい。


そのために、マインドをフルに(スピリットからきているなにか)に与える、という意志をもつ。

そのために、「当てにならない(自我の)声」には、ちゃんと「これは当てにならない声だ」と言い渡す。

 


この意志をもちながら、浮かび上がってきた自己概念(勝つ必要がある俺、攻撃される俺、卑小な俺・・とか)を見たとき、

その自己概念がヒリヒリした痛みをもたらすだけで、持ち続ける価値のないようなものにも感じられた。

 

 

 


この体という自己概念も超えていきたい。

そのために、マインドをフルに(スピリットから来ている何か)に与える。

 

具体的なファンクションという形をとおして、

このような抽象的なこと(「マインドをフルにスピリットに与える」とか)を実践させてもらえるような感じがしてありがたい。。。

 


今回ここまで「マインドをフルにファンクションに与える」という言葉が響いたのは、

そうすることで
確かにこの身体という自己同一化・自己概念を超えていけるんじゃないか、、とう感覚に触れたからだを感じる。


超えていきたいです。


聖霊、スピリット、ジーザス・クライスト、どうかたすけてください。