触れているものと五井先生の祈り
兄弟がトリガーになってくれて、強烈な怒りに触れた。
目の前の兄弟の存在そのものにたいするもののように感じる怒り/憎しみ(存在そのものを握りつぶしてやりたい、捻り潰してやりたい)・・から気づかせてもらったのは、
もっとずっと根本的に広範な対象にたいして怒りや憎しみを持ち続けているという感覚。
リトリート以降、どんどん毎日の時間への侵食度合いが増している、
五井先生の祈り。
そのなかの
「世界人類が平和でありますように。日本が平和でありますように。」
のところ。
「世界人類」はなんか遠くて抽象的で実感がわかなくて、ただの言葉として感じてたけど、
「日本が平和でありますように」というところに自分のなかに抵抗があるのを最初から感じていた。
具体的な、日本にいる日本人として、目の前にいる人たち。
日本の平和、日本にいる人たちの心底からの平和、平安。
そうありますように、という祈りによって、
自分のなかにそれとは正反対の思いや感情があることがあぶりだされてきた。
ものごころついたときからずっとあったもの。
目の前にいる相手、目の前にいる人たち、
日本の人たちの心の平和なんて、
これっぽっちも望んでいない。
それどころがめっちゃ怒っていて、憎んでいる。
ずっと隠し持ってきて、隠し持っていることすら自分で気づかなくなるレベルで隠していた。
こんなん隠し持っとったら、そりゃ当然友だちも彼女もできんじゃろ・・そもそも作る気ないじゃろ・・ただ性欲とか利用欲があるだけじゃろ、、、という感じ。
「日本が平和でありますように」という祈りの言葉によって、
それがあぶりだされてきた。
今とてもありがたいと感じていること。
それは自分がいかにこういう感情思考しかなくて救いがないように見えても、
それを全部そのままで、自分でどうにかしようとしないまま、
ただ消えさるがままにゆるしていくことができるという祈りのなかに
全面的に投げ込むことができるんだ、、、という実感。
リトリートで書道のときに感じさせてもらえた、
ほんとうに時間のない、完全無欠の神の世界みたいなものが実在するんだ、という感覚。
そのことが心の奥にずっと残っている。
そしてリトリート終わりから入ってきた、五井先生の祈り。
どんな救いようのないひどい感情を感じていてる「自分」がいたとしても、
そんな「自分」まるごと、それそのものが消えてゆく姿なので、
持ち続けなくても、持ったままそれを改善したりしようとしなくてもよかったんだぁぁぁ・・・というありがたい感覚。
たとえば「(いつか)こんな憎しみを感じない自分にならんといけん」とか「(いつか)こんなことで動揺せん自分になっていかんといけん」とか。
そういうのが全部必要なかったんだ、そのために自力で指一本動かそうとする必要すらなかったんだ、というありがたさ。
「守護霊さま守護神さまありがとうございます」
「神様ありがとうございます」
という祈りのなかで、
どんな「自分」(今どんなにひどい感情や思考にまみれているとしても)も消し去ってもらえるという信頼、消えるがままに消えていくという信頼が、
そういう信頼が、かなりゆるぎないものとしてそこにあるという感じがしている。
そのことが超絶ありがたい。
最後に残るのは、書道のときに感じさせてもらえた、あの時間のない完全無欠の「これのみが実在であるもの(これ以外は実在ではないもの)」しかない。
何を感じても大丈夫。
消えていくのをゆるすために、ぜんぶ触れて、浮上させたい。
だから、今は、目の前の人(今は日本の人という概念が象徴的にあらわしてくてる)にたいして感じている怒りや憎しみにできる限り、あますとこなく触れたい。
そして触れるそばから、神への祈りのなかに自分まるごと投げ入れたい。
ありがとうございます🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏