壁紙

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エスのところに、自分のものだと思ってるものを全部置かせてほしい、
と思ってから、

パソコンの壁紙を変えたくなって

「イエス 壁紙」とかで検索してみた。

 

これがいいと感じた。

このイエスの前に、全部置いていきたいです。🙏🙏🙏

 

 

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置かせてください🙏🙏🙏

 

9月13日、これまでメインだった取引先から「商品がなくなる」とメール連絡が来た。

そのメールを読みながら、ついに来たか、
これで収入がほとんどなくなってしまう、どうしよう、という思考がある一方で、
感情的にはどういうわけか取り乱すことなく落ち着いていた。


これまで何度か、
「この取引先だけに頼っているのは危険。だからもっと他に柱をつくんなきゃ」という思考で何か新しいことに手を付けようとしたことはあったけど、どうしても体が動かなかった。

そこからの「ついに来たか」という思考だった。

 


それからしばらく、
とくにこの連絡を受けた日は、

・・これからも多分「稼がなきゃ」という思考からだと体は動かんだろう。
なので本当に毎日一瞬一瞬のインスピレーションだけに従っていく、というのをやっていくことになるのかもしれない、、
というのを感じていた。

それは恐ろしさもあるけど、広がりを感じるものでもあった。

 

 

同じ9月13日、
ある会社からお話ししたいというメッセージが来ていた。

その会社について、自分が取り扱うことのできそうな商品について調べてみると、ほとんど売上のたちそうなものはなかった。

なので、これまでの取引先にとってかわるようなものとは到底思えなかった。

でもたとえそうだとしても、
同じ日にメッセージがあったのが何かのサインのように感じられて、
ひとつのドアが閉まったら、別のドアがちゃんと開かれますよ、という象徴なのかな、と感じていた。



その後、その会社の方に会ってみると、
実際はその会社の商品を扱ってほしいという話ではなく、
自分が以前から「いい会社だな・・」と思っていた別の会社とつないでくれて、その会社の商品を扱ってほしいという話だった。

そこから話がすすんでいき、もしかしたら、うまくいけばなんとか食っていけるかも、、という期待が、今は自分のなかに沸き起こってきている。

 

 

でも今日、
そもそも彼らが私につながりたいと思った私の実績・力のようにみえるものが、もしかしたらかんたんに吹き飛んでしまうかもしれない、と思える現象を目にして、動揺した。

ああ、この「自分のもの」に
またしがみつき始めとるんやな、、、と思った。


こういうのはもう本当に苦しいし、やめたい。

 

のりこさんが何度か話していた、
車の鍵と家の鍵の置き場所に困って、最終的にイエスの絵のところに置いたらホッとした(といった内容だったと思う)という夢の話を思い出した。


もう本当に、自分のだと思ってきたものをすべてイエスの管理下に置かせてもらいたいです。

これは自分のもので、自分がやっていくんだ、という苦しみから自由になりたい。

 

私の仕事も、私の体も、私の関係も、私の思考感情も、私の人生すべても、

すべてをあなたのもとに置かせてください🙏🙏🙏

 

 

 

 


じゅんこさんにたいしても
れいさんと同じように平安へのツールの準備ワークで、そこにある思考や感情をはっきりさせることがすごく助けになった。

 

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【動揺を感じる状況】

じゅんこが聖霊に愛されていてどんどんいろんな人とつながりや一体性を感じていくことについて、置いていかれていると感じる。

じゅんこのように「聖霊がこう言ってるよ」とか、身近に聖霊を感じられないことについて、自分はだめだと思う。

自分がつながったりたずねた気になっているだけで、実は「聞いているオレ」という自分像のためだけにそのように振る舞っているにすぎないことを暴露されるように感じて劣等感、不安、怒りを感じる。

じゅんこのように、(聖霊にもみんなにも)本当にオープンになっていくことについて恐れを感じる。

じゅんこに「あなたは閉じている。もっとオープンにならないと。」「それが正しいんだからあなたもそうするべきだ」と言われていると感じ、自分を未熟で閉じていてわかっていないと否定されているようで怒りと屈辱感と悲しみ、寂しさを感じる。


【キャラ設定】

じゅんこ:

容赦なくコアへと突き進み、けんたにもそうするように突きつけてくる嵐の中心。
その過程であることないことこっちにつきつけてくる混乱の源。
聖霊の愛を受け入れ開かれていっている、先に進む者。


けんた:

「自分はやれている、すすんでいる、人より上にたてている」というハリボテをたよりに生きてきたが、容赦なくコアへと突き進むじゅんこによってそのハリボテをボロボロにはがされ、打ちひしがれる者。

聖霊にたいして頑なに閉じている、救いようのない頑固者。

 

【感情】

無価値感
屈辱感
怒り
憤激
激怒
嫌悪感
悲しみ
寂しさ

さらにその奥で、
恐怖

 

【最悪の想定】

・じゅんこを始め皆がどんどん開かれ一体性を感じ開放されていったのに、結果、オレひとりが閉じたままでいて、皆からあわれまれる惨めな存在であることが確定すること

・じゅんこにどんどん追い込まれていって、絶対に見たくなかった表現したくなかった自分の中の何か、絶叫的な絶望の叫びのような何かに直面させられること


【最善の想定】
・自分のこころのあり方がじゅんこにも皆にも「聖霊と一致した、開かれたすばらしい心のあり方だね」と認められ、「閉じてる」とか言われないこと

 


①(A) 

私が、

じゅんこが聖霊の愛を受け入れてどんどんいろんな人とつながりや一体性を感じていること、

聖霊がこう言ってるよ」とか、身近に聖霊を感じ、(聖霊にもみんなにも)本当にオープンになっていくこと、

じゅんこに「あなたは閉じている。もっとオープンにならないと。」「それが正しいんだからあなたもそうするべきだ」と言われると感じること、

について考えるとき、


②(B)

無価値感
屈辱感
怒り
憤激
激怒
嫌悪感
悲しみ
寂しさ

さらにその奥で
恐怖

を感じる。

 


③(C1)

なぜなら、

・オープンになることを強要してくるじゅんこ、
・閉じたままのオレ

が責められるべきであるし、


(C2)

あるいは未来に、

・じゅんこを始め皆がどんどん開かれ一体性を感じ開放されていったのに、結果、オレひとりが閉じたままでいて、皆からあわれまれる惨めな存在であることが確定すること

・じゅんこにどんどん追い込まれていって、絶対に見たくなかった認めたくなかった自分の中の何か、絶叫的な絶望の叫びのような何かに直面させられること

が起こるのを恐れているから。


④(D)

これらのことは

私のコアには絶対に開かれてはならない絶対的におぞましいものがあり、私はそれを隠さない限り存在することができない、恐怖と不安に満ちたあわれで惨めな存在だ

ということについて私が正しいことを証明しています。


⑤(E)

私が求め(ていた)、期待している(いた)のは、

・自分のこころのあり方がじゅんこにも皆にも「聖霊と一致した、開かれたすばらしい心のあり方だね」と認められ、「閉じてる」とか言われず、今のまま尊重されること

です。

 

 

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容赦なくコアにつきすすむじゅんこによって、

絶対にみたくない内側に閉じ込めている絶叫のような何かに直面させられるのを恐れている。

それに直面するくらいだったら、嘘でもいいからあり方を表面的に認めてもらえて今のまま、ずっとそのままのほうがましだと思っている。

だから深く関わりたくないしぶつかりたくないと思っている。



これはこの真我なるハートという界隈全般にたいしてもっているものでもあると感じる。

じゅんこに限らず、容赦なくコアにつきすすむ兄弟たちにたいしてこう感じている。

恐れている。

 

 

でもその「絶対に見たくなくて内側に閉じ込めている絶叫のような何か」について明らかにしない限り、それを聖霊といっしょに見てもらわない限り、平安はありえないのでしょう。


私は真の平安を知りたい。

 

それまでは、それがどんなものであろうと、

自分のなかにある思考や感情をただただ上げていくしかないのかな。

 

 

 

 

 

 

こうしてブログを書くことについて、自分で見方を制限したり、起こったことを自分の観点で固定させてしまうんじゃないかという疑念がある。

 

 

 

自分の知覚のなかでは、

特に今月頭のれいさん、じゅんこさんとの関わりをとおして

自分がいかにハリボテでスカスカの自分像をたよりに生きてきたのかをあらわにしてもらえたような感覚があって、

ホッとしている。

 

 

ひろゆきさんの勉強会のときにのりこさんが言っていた、

「誰もわたしが神の愛を全面的に受け入れるのを邪魔してない、妨害してないよ」

という話は、本当にそうなんだな、と感じた。


この話はうれしく感じたし、二人とのやりとりのなかで追い込まれたと感じたときにすがっていた、「どんなに知覚がひどいと思えても、私だけに問題がある。だからこそ、救いの可能性がある・・」という感覚ともつながる感じがした。

 

 

 

最初はれいさんとのやりとりのなかで、自分の見方や自分の感じ方こそが正しいんだ、という絶対的な言い張りがあるなかで、れいさんにたいしてお前は間違っているという攻撃を思う存分向けるということがあった。

子供のけんかみたいに、思い切りやらせてもらえた。

 

そのたぶん次の日、
自分が正しいと信じていた「自分の感覚・感じ方」が、実際には兄弟の癒やしを妨げていたと指摘されて、超絶恥と怒りを感じた。

 

そのたぶんまた次の日、れいさんへの不信感からこころを開きたくないというのがあったのに、それを隠しながられいさんじゅんこさんとミーティングしたときに、二人から何か隠しているように感じる(というニュアンス)のことを言われて、いたたまれなくなった。

 

「心のなかを打ち明けることがこの道においては良いこと」なのに、それをできない、するつもりがない、ダメダメな自分を感じた。

 

さらにそんな「閉じた、こころを開くつもりがないダメな存在」であるオレをあわれむような言動をされていると感じて、なさけなさと恥ずかしさを感じた。

 

その場は閉じたままでしかいることができなかったけど、そのミーティングの目的だったファンクションをいっしょにやらない感じはしなかったので、そのままいっしょに続けさせてもらった。

ファンクションが一段落ついたとき、そのときできる限りの打ち明けをさせてもらいたいと感じられてきて、れいさん・ファンクションに参加していた皆にお願いした。

そしてその日の夜、そのときできる限りだけだったけど、打ち明けをさせてもらえた。

 


そのまた後日、
ラファエルからファンクションについての連絡が入り、これはれいさんと連絡をとる必要があるやつだ、と思ったけど、どうしてもれいさんとコミュニケーション取りたくないというのがあった。

 

もやもやした抵抗があって、
どんな思考があるのかはっきりさせたいと感じて、
ひとりで平安へのツールの準備ワークをやってみた。

 

その結果は、とてもよかった。

 

自分のなかにあった思考をはっきりそのときできる限りあらわにさせてもらえた感じがして、ホッとした。

 


そしてれいさんに連絡して、エクスプレッションもさせてもらえた。

 

もうどうしようもない感じだった。

 

自分のなかにはこういう思考と感情があります。

 

それをそのときできる限りさらすことしかできない。

 


それだけだな、と感じていて、
それをただただ聞いてもらえるというのはありがたくて、同時にホッとする感じもあった。

 

 

 

ここまで書けると思えなかったけど、書けたので書いてみました。

 

 

 

 

 

レミニセンス


れいさん、じゅんこさんが観に行った映画「レミニセンス」。

ちょろっとどんな感じか聞いたけど、

観に行く感じがしたので行ってみた。

 

 

特別性という記憶=過去に閉じこもり続けとる。

聖霊を除外して、自分の考え、自分による幸せの定義だけを頼りにして。

(甘い記憶のように見えるけど、そこには暴虐性もはらまれとる)

 

それをずっとやってきたし、今もやっとるんやな。

何年も何十年も何百年も何千年も。


それをやっとるんやと見せてもらえた。

 

(やっとることを見せてもらえてありがたい🙏)

 


最後の場面、一瞬涙がこみ上げてきたのだけど、

今までの人生で体験してきたどんな涙ともカテゴリーが被らない、
謎の、なんともいえない涙に感じた。

過去に耽溺するんだ、という決断。

何億年と繰り返し続けとる、

やるせない、かなしさ、みたいな。

 


本当にこの繰り返しをやめたい。

この閉じこもりの外に出たい。


昨日観た映画「フリーガイ」みたいに、

この鬱屈さを突き破りたい。


聖霊、たすけてください。

外側からの、あなたのたすけが必要です。

 

 

 

 

 

 

youtu.be

 

願望


YouTubeライブのときのみんなの開放感を感じながら、

自分はどこかスタックしているようにも感じていた。

 

 

次の日、映画「フリーガイ」を見に行く感じがしていたので、映画館に行こうと電車に乗っていた。

その途中、今使ってるシェアオフィスがある駅についたとき、

なんか映画より先に、今、このモヤモヤについて見る感じがした。


そっちを選ぶと見ようと思っていた映画の回には間に合わなくなるけど、

たずねてみると「降りる」感じがしたので、扉が閉まる直前に思い切って降りてみた。

 

降りてみるとやっぱりこっちでよかったみたい。

そのときはどうしていいかわからなかったけど
とりあえずメモを開いてジャーナリングするとかして向き合う感じがして、
シェアオフィスに向かった。

 


それではっきりしてきたのは、

前回のブログで書いたこと:

特別性をもった役割とかヒエラルキーのこの辺の役割というマスクを維持してその下に隠れ、自分の獰猛さを隠すために、
人に対してもオレのマスクを維持するための「劣った者」「オレより下の者」というマスクを押し付けていて、
目の前の誰のことも見ず、触れることもなく、知ろうともしていなくで、
実際目の前の人が誰なのか何なのか、まったく知らなかった、ということ。


これについて、まだ誰かに直接打ち明ける必要があるということだった。

 

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何人かの人を思い浮かべながらたずねていくと、えばちゃんのような感じがした。


今すぐがいい感じがしたので、30分くらいエクスプレッションをさせてほしいとえばちゃんに連絡すると、すぐに30分時間をとってもらえた。

 

つながらせてもらって、↑このことについて話す。

えばちゃんにたいしても、このようにして「オレよりヒエラルキーが下の者」というマスクを押し付けていて、まったくえばちゃんのことを見ていなかったと。

話しきって、ほんとうに聞いてもらえてよかった、助けられた、というように感じた。

 

胸を借りれたというか、懐を貸してもらえたというか。

スペースを保ってエクスプレッションを聞いてもらえるということそのものが本当にありがたかった。

 

 


話し終わるとえばちゃんが感じていたことをシェアしてくれた。

多分こんな内容だったと思う。

『けんたさんが話していたとき、ジーザスが子を慈しむ親のような感じで、
けんたさんに「大丈夫だよ、何も問題ないよ」と
頭をなでながら言ってる感じがしてました。』

正確ではないと思うけどこんなニュアンスのことをいってもらえた。

 

ありがたかった。

 

 

懐を貸してもらえたようなあたたかさ、ありがたさを感じていたなかでその話を聞いて、

そのジーザスの姿はえばちゃんの中にあるように感じられてきて、
そのことを伝えた。

 

そして自分が今までやってきた、
目の前の人を見ずに触れずに、自分の特別性を維持するためだけのその人用のマスクを押し付けてきたこと、
それを本当にやめたいと思いながらzoomの中のえばちゃんを見ていると、

夕陽の光に照らされたえばちゃんの顔のその奥に、

美しい存在が存在している、その存在感が感じられてきた。

 

えばちゃんに対しても、どんな人にたいしても、そのような美しさを見たのは、感じたのは、初めてのように感じた。

 

この体験は一瞬だったかもしれないけど、

目の前の人にそれを見ていきたい、、それが願望なんだ、、、、

と、本当に感じられた。

 


忘れることもわからなくなることも何度もあるかもしれないけど、

この体験をさせてもらえたことが本当にありがたかった。