「競争を信じることからくる罪悪感」
小さい頃からずっともっていた、この苦々しい思い。
カープが勝つと、勝ち誇る。
スポーツニュースをみて「勝ったぞ!」と叫ぶ。
ライバルチームのファンのコメントをよんで
優越感にひたる。
負けると何とも言えない悪意に満ちた気分があふれ、
「誰誰のせいだ!」という攻撃的な思いがあふれ、
ライバルチームのファンを全員ぶっころしてやりたくなる。
最近ドラゴンズのファンが、マツダスタジアムで
応援にあわせて
「ぶっころせ!しんじまえ!原爆おちろカープ!」
とやってたのが問題になっていて、
ひどいやつがいるな、くらいに見ていたけど
これがまさに自分の姿だった。
はは、笑えない。。
ずっともっているこういうの、もう苦しいのでほんとうに終わりにしたい。
ほんとうに向き合いたいと思った。
のりこさんがシェアしてくださった、デビッドの来日セミナーのyoutube映像のなかの、デビッドのコメントがすごくタイムリーに響いてきた。
「That is coming from guilt in the mind from believing in competition.」
この言い方って「競争を信じることからくる罪悪感」
つまり競争が先にあるってこと?
と考えたとき、「自我は神と競争状態にあると信じている」
みたいな話がテキストかレッスンにあったな、と思い当たった。
「competition」(競争)で検索してみると(https://acourseinmiraclesnow.com/getting-started/)、ワークブックレッスン13とテキスト7章段落3
にあった。
レッスン13には
「意味のない世界は恐れを引き起こす。それはわたしが神と競争していると思っているからだ。」
というのがでてくる。
意味のないものは存在しないが、自我が知覚するのは意味のないものだ。
そして意味のないものを知覚している、という思い込みは、
その意味のない空白に、自我からの意味か、神からの意味か、どちらかが書き込まれるという
「競争状態」があるという思い込みにつながる。
自我は「この世界」に、自我の意味か、神の意味かどちらかが書き込まれるという「競争状態」にあると思いこんでいる。
神との競争状態。
これをスポーツチームとして投影してるんだろうか?
あらゆる関係は結局「神との関係」をどうとらえてるかの投影なんだ、という話もどっかで聞いた気がするし。
でもそれくらい、贔屓チームに肩入れしてみて、結果にこころを左右される苦しみというのは大きい。
続いてテキスト7章の3。
「だが、もし彼らが自分の兄弟の誰かを、自分と完全に対等ではないものとして知覚するなら、競うという考えが彼らの心に入り込んだことになる。
この考えに対して警戒する必要を過小評価してはならない。なぜなら、あなたの葛藤のすべてはそこから生じるからである。
それこそが、衝突する利害というものがあり得るという信念であり、したがって、あなたはあり得ないことを真実として受け入れていることになる。
それは、あなたが自分を実在しないものとして知覚しているというのとどこが違うのだろうか。」(7-3-3-4)
たしかに、神から分離してみたい=神と競争したい、という最初の欲望がすべてのスタートだった。
「競うという考えが心に入り込んだ」「すべての葛藤はそこから始まる」。
デビッドがいうとおり、「競争を信じ込んだことから来る罪悪感」なんだな。
つまり神から分離して競争相手としてしまった!!ということからくる罪悪感。
これをうすめて耐えられるものにするために、この宇宙を投影していて、
そのなかにスポーツチームもあるということか。
やっぱり、こうして第4分裂から第1分裂の全体像のなかで、今抱えている「問題」をとらえるしかないな、とあらためて実感する。
神との競争という信念を選んだ。
そのことと、その結果としてこの世界にあらわれているようにみえることをみつめていこう。
「神との競争」という信念が最初にあることについてみていったときに、
これまでイエスや聖霊の声が聞こえなかったのは
「イエスや聖霊は競争相手=神のメッセンジャーだから、こっちにこさせるわけにはいかない!」
と、かたくなにイエスや聖霊が入ってくるのを防御しようとしていたのがみえてきた。
テキストに「あなたにとっては聖霊が悪の使者にみえる」というような話があった気がするけど、
まさにそうやな、と。
こんなん聞こえなくて当たり前や。
やっぱり神を競争相手とみているところからしっかりみていこうと思う。
私は間違ってしまいました。あなたの声を受け入れたいです。
追記2:神との競争を信じてることが、どういうことなのか、を描写したテキストの箇所があった。
(18-8-3)
「この王国のなかでは自我が支配しており、しかもそれは残酷な支配である。そしてこの小さな塵の一粒を防衛するために、自我はあなたに宇宙とたたかうように命じる。
あなたの心のこの断片はその宇宙の微小な一部でしかないので、もしあなたが心の全体を賞美できさえすれば、断片は太陽にとっての微々たる陽光のようなもの、あるいは大海の面のかすかなさざ波のようなものだということが、すぐにわかるはずである。
この微小なひとすじの陽光は、その驚くべき傲慢さにより自分こそが太陽だと決め込み、ほとんど目にもとまらぬこのさざ波が、自分は大海だと豪語している。この卑小な信念がどれほど孤独で、恐れおののいているか、考えてみなさい。
それはみずからを孤立させて宇宙に対抗している限りなく微小な幻想である。
太陽は、そのひとすじの陽光を吸い込んでしまう「敵」となり、大海は小さなさざ波を震え上がらせ、それを飲み込もうとする。
だが、太陽も大海も、この奇妙で無意味な所業に気づいてさえいない。
どちらも、その微小な切片により恐れられたり憎まれたりしていると気づくこともなく、ただ在り続ける。そうした切片ですら、太陽と大海から失われてはいない。
切片はそれらから離れては存在できないからである。
そして切片がみずからを何であると考えようと、それが太陽と大海に全面的に依存して存在しているということに変わりはない。
その全存在が依然として太陽と大海のなかに在り続ける。太陽なくしてひとすじの陽光もなく、大海なくしてさざ波は想像だにできない。」