ありがたい、仲間とのファンクション

じゅんこさんとやった、2日間の三脚返却ファンクション。

長野で感じた変化から、これからはまったく新しい歩み方になるということ、
それがどんなものなのか、はっきりと教えてもらえたような2日間だった。


本当にありがとうございます。

 

 

初日は三脚を受け取ったあと、

テラスモールのテラスでとりあえず座って、今後どうするかについて祈るための時間となった。


形としては二人の人間が座って話をしたりいっしょに祈ったり、、ということが起こっていたようにみえるけど、

そういうことをしながら、

だんだんと

「私たちのからだはスマホと同じ、コミュニケーションのためのデバイスにすぎない」

ということが入ってくる瞬間が増えていった。

 

「使われる道具として、じゅんこもけんたもこの三脚も変わりがないんだね」といったことを話しながら、

それが嫌な感じではなく、幸せと笑いがこぼれた。

 

ただのデバイスとして、自分たちに違いがないという感覚が幸せに感じられた。

 

 

バイスにすぎないんだから、
いっしょに祈ってデバイスの使われ方を教えてもらうしかない。

そういうなかでも時には
「知ってる」ところから無意識に動き出そうとすることが何度もあったけど、

一人ではなく二人でいたおかげで、
立ち止まって耳を傾けることを思い出させてもらえたように感じた。

 

ファンクションをとおして「けんたもじゅんこも違いがない、ただのデバイス感覚」
を感じさせてもらえること、

そうやって「個人固有の何か」を手放した先に何があるのかを垣間見させてもらえるのは、
とてもやさしい導きのように感じられた。

 

 

 

また、
じゅんこさんが率先してプライベートソート(プライベートな思考)を打ち明け始めてくれたことに助けられて、

お互いに、自分も、
いろいろ打ち明けていくことになった時間が、
何かわからないけどとても大きなシフトをもたらしてくれた。

 

 

まず直近であった、
長野リトリートのみんなの音声ファイルをとりまとめたことについて、

「ほら、オレはこんなに役に立つことができるんや」
「お前らとは一段レベルが違うんや」
「オレのおかげやろうが」
「そうや、そうやってオレにお礼を述べるんや」

こういう思考があることを打ち明けさせてもらえた。

 


長野リトリートについてのブログを書けなかったことについても、

「奇跡を体験した、オレが書いてやる」
「オレのすばらしい経験がまわりにいい影響を与える」
「オレのすばらしいシェアがオレの立場を強くする」

とかの思考があったから書けなかった・・というのも暴露された。

 

 

恥ずかしさや失敗感を感じながら、

こういうごくごく狭い場所、けんたのプライベートワールドの内側でプライベートな思考を持ってイキっとることを自覚にあげていくと、

とてつもない気持ち悪さが上がってくる瞬間が何度かあった。

 

 

でもそういうのを繰り返しながらも、
自分がもっとるプライベートソート、
それをもとに生きとるプライベートワールドを打ち明けていくことにしか
行くべき方向はないというのも感じた。

 

 

 

その後、
けんたという人の設定のなかで大きな重要性をもっている、
若くてきれいな女性への執着と、それにまつわるもろもろのプライベートソート(可能性を高めるために若くみせんといけん、老いに抵抗せんといけん、など)も上にあげさせてもらえたとき、

そのプライベートな思考信念で覆われた、
その下にある悲しみを、
じゅんこさんが目撃してくれたようなことが起こって、

自分でもその泣き叫びに触れさせてもらえることが起こった。

 


ずっと泣き叫んでいた。

愛がわからなくなったといって泣き叫んでいて、

その泣き叫びを覆い隠すために

そいういうプライベートな思考信念でそこにフタをしていた。

 

「泣き叫んでいた自分のほうを見てあげてね」

「あなたは愛だよ」

そういう愛の言葉を伝えてくれるじゅんこさんの声を聞きながらその泣き叫びに触れていると、

「抱きしめたい」

というのが上がってきた。

 

しばらくその思いといっしょに過ごさせてもらえた。

 

その泣き叫びに触れさせてもらえたこと、

「抱きしめたい」という自分のなかの愛にも触れさせてもらえたこと。


とてもありがたかった。

 

 


こういう体験をさせてもらえるなかで、

今この瞬間のいのちの輝きを覆い隠すだけのプライベートな思考、

そんなプライベートな思考でつくったオレだけのプライベートな世界、

そういうのを本当にあきらめたい、手放したい、

という強い欲求が心の奥底から湧き上がってきた。

 

「公開したい。オレのなかにあるすべてのオレのだと思ってる思考、それによってつくっているオレだけの世界を、
全世界に、聖霊に、公開したい。

そうせんとムリ。
これ以上やっとれん。

本当にそうしたい!!!!」

 

 

この欲求に触れたくらいから、

プライベートソートって、ただたんに「人に知られたくなくて隠しとる思考」というふうにとらえとったけど、

実際はもっと根深いもので、

「けんたっていう分離した意識がある」という感覚を構成しとる思考全部がプライベートソートなんじゃ・・・

という驚きをともなった気づきのようなものがやってきた。

 

隠す隠さんに関わらず、
「これはオレの思考」と認めとる思考はすべてプライベートソートじゃと。


「他から分離したけんたという意識」の構成要素になっとる思考はぜんぶそうなんじゃと。


すると、

「プライベートな思考、プライベートな世界を手放す」ということは、

もじどおり

「けんたという分離した存在は存在しない」

ことを受け入れることになるんじゃ・・・!?

というのがやってきた。

 

神はego(自我)について知らないし、
神はプライベートな思考について何も知らない。

言葉では聞いていたこのことが、
初めてこのけんたという場所をとおして「ほんまかもしれん」と感じられ始めたような気がした。

 


この認識とも相まって、

本当にプライベートな思考、ブライベートな世界を手放したい!!!
それでしか平安はありえん!!!

という強い欲求に触れさせてもらえることになった。

 


このことが本当にありがたいと感じています。

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

プライベートな思考、プライベートな世界を捨て去りたい。

 

 

今日じゅんこさんと会って、

何かわからないけど強烈な経験を与えられ、

何か強力な欲求がうまれた。

 

 

 

プライベートな思考

プライベートな世界

神を除外した世界

恐れをベースにした世界


「けんたの思考」「けんたの世界」「オレの思考」「オレの世界」というプライベートな思考、プライベートな世界を捨て去りたい。

 

この前の長野リトリートでみんなをとおして、生まれて初めて感じさせてもらえたのは、

この「プライベートな世界」ではない、

それとはまったく違う、

本物のリアリティがあるんだ、ということ。

時間も空間もない、切れ目なく無限に広がるよろこばしい何か。

 


「役に立つオレ」「役に立てないオレ」「勝ててるオレ」「負けてるオレ」がいるプライベートな世界を捨て去りたい。

「若くてかわいい女を連れ歩きたい野望をもったオレ」「若くてきれいな女に相手にされず無価値感を感じるオレ」がいるプライベートな世界を捨て去りたい。

「プライベートな思考をさらすことに恥を感じるオレと、オレをジャッジする打ち明ける相手」がいるプライベートな世界を捨て去りたい。

 

 

「オレのプライベートな世界」で覆おうとしている、隠そうとしている何かに触れたい。

愛がわからなくなったと泣き叫んでいる何かに触れたい。

抱きしめたい。

 

 

聖霊、イエスさま、
私のプライベートな思考、プライベートな世界をすべてあなたにささげます。

 

きょうだいをとおして
気がつけるように助けてくださりありがとうございます。

 

 

 

 

映画「アイランド」 David Hoffmeisterによるコメンタリーを聞きながら書き取ったメモ。

bit.ly

 

https://www.spreaker.com/user/davidhoffmeister/the-island-august-14-2021

 ↑こちらがDavidによるポッドキャスト音声

 240分以上と長いので、とりあえず映画を見る前段階のコメント(43:48くらいまで)を聞きながら書き取ったメモ(はしょった和訳)。

 

 

 

 

 

「あなたは特別だ」|映画『アイランド』を見て

 

Davidの最新のSpreakerで話されていた映画「アイランド」が気になって見てみた。

 

近未来。大気汚染から守られ、管理の行き届いた安全で快適なコミュニティで暮らすリンカーン。彼やその他の住人にとっての夢は、地上最後の楽園といわれる"アイランド"へ行くこと。そしてその抽選会が毎日のように行なわれていた。だがある日、リンカーンは換気口から入ってきた一匹の蛾を見て、ある疑念を抱く。やがて彼が独自に調査を進めるうち、自分たちは保険契約を結んだクライアントへ臓器を提供するために生かされているクローンで、"アイランド行き"の名の下に臓器を摘出される、という事実を知ってしまう...。

 

youtu.be

 

 

 

かなりでかい何かを解き放ってくれるように感じた。

 

 

(以下ネタバレ注意)

 

 

 

今とにかく心に残っているのは、

臓器移植用の「製品」として、当初は植物のように育てられるはずだったクローンが、
実は人間のような意識や生活をもたないと肉体が維持できないのだとわかり、
そのために「人間としての記憶、教育の刷り込み」が行われている場面。


「製品」たちは四六時中モニターを見せられ、そのモニターによって記憶を刷り込まれるわけだけど、

その中で繰り返し繰り返し、

「You are special」あなたは特別だ
「You've been chosen」あなたは選ばれたのだ
「Very special」とても特別だ
「You are special」あなたは特別だ
「You've been chosen」あなたは選ばれたのだ
「Very special」とても特別だ

 

と刷り込まれる。


この場面が強烈に印象に残っている。

(人間としての意識をもつためには「特別だ」と刷り込む必要がある、というのが興味深い・・)

 


この場面を見ているとき、

あ、この、
今自分だと思っている、
他の人たちと区別できるという意味で「特別」だと思っている、
このわたしという意識も、

実はただこうやって
「あなたは特別だ」という声だけに何度も何度も耳を傾け続けることによって
そうだと思いこんでいるだけなんじゃないか???

あのクローンたちと同じように。

 

・・という認識が強烈にやってきた。

 

 

今まで無意識に、
アプリオリに(先天的に/ゆらぐことのない前提として)存在している」と感じてきた
「私という意識」は、

実はこうして「教育」されて、
「ある」と感じられているだけのものなんじゃないか・・

そういう感覚が強く感じられた。

 

 

そしたら、
もしこの内側の「あなたは特別だ」という声だけに耳を傾けるのをやめたら、
どうなるんだろう???

と、別の選択肢があることが感じられてきた。

 

「あなたは特別だ」という声に耳を傾けるのをやめたら、

それを信じるのをやめたら、

それを望むのをやめたら、

そうじゃない方を望んだとしたら、

いったいどうなるんだろう。

 


(今までこの内側の「あなたは特別だ」という声だけに耳を傾けようとしてきたのは、
あの「神から離れたら・・? 」という小さな狂った考えについていきたいと望んだからだろうか。


そしてこの「特別だ」が意味するのは、
神の一体性・完全性から離れるという意味でしかないんじゃないか。)

 

 

あのクローンたちが刷り込まれている場面が、
今自分の心のなかで起こっていることを見せてくれているように感じられて、
とても、とても助けになるように感じている。

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

のりこさんたちが

「ホテル探しにマインドエナジーを使わなくてもすむように」

ということで、
必要なホテル探しのファンクションを与えられた。

 

自分でも調べてリストアップし、
自分だけではやらないほうがいい感じがして
みんなにも手伝ってもらい、
最終的にいくつかに絞ってのりこさんに伝えることになった。

 そして、

「できる限りわかりやすく、予約するホテルを選ぶのに負担のないように」

というのを考えてやったつもりが、

『実はリストアップしていたのに最終的に自分のなかで却下して伝えなかったペンション』

を、のりこさんが自ら探して予約する、

という結果になった。

 

 

この結果を知ったとき、

まず上がってきたのは「やってしまった・・」というやつ。


ちゃんと伝えていれば不要だったよけいな時間とエネルギーをのりこさんに使わせてしまった、

何の役にも立てなかった、という失敗感。



そして、
「いや、リストアップはしてたんですよ!」

と言い訳のようなことをしたい思考も上がってきた。

「役立たずの自分」というイメージをなんとか修正したい、という衝動。



そのときに、

「これこれこういうプロセスが自分の心のなかであって、
自分なりに聖霊に聞いたつもりもあったのですが、
最終的にペンションを却下してしまっていました。
よけいなマインドエナジーを使わせてしまいすみませんでした。」

というようなメッセージを送る思考も出てきたけど、

これはなんというか、
人間としてのやりとりを利用して
肝心なところを見えなくするような感じがして、
やめた。



それよりも、

この機会をとおして浮上してきた
自分のなかの無価値感や罪悪感といった「闇」をとことん浮上させ、
聖霊にささげきること、

それが「わたしというひとつのこころ」の解放のためには一番だ、

けんたの立場を守ろうとするのはまったくいらんことじゃ、

という感じがして、

そうしたいと思った。

 

 

 

その後もなんともいえない気持ち悪さがあって、
平安へのツールと準備ワークを久々にやってみることになった。

 

準備ワークで感情について見ていくと、

まず最初は、

「無価値感」
「罪悪感」
「絶望感」
「目を背けたい感じ」
「自分が維持できない感じ」

というのがあって、

さらにその奥は?というのを見ていくと、


「安全ではない感覚」
「孤絶感」


そしてそこからの
「冷たく固まった感覚」

というのが出てきた。

 

 

この「安全ではない感覚」は、
今までになく、
リアルに、
純粋な「安全ではない感覚」として感じられる部分があった。


そしてそれに付随した孤絶感、

そこからの
「冷たく固まった、凝固してしまった感覚」。


 

これらの「抽象的な感覚そのもの」が
自分だと思いこんでいて、

その抽象的な感覚から、
この具体的なけんたとけんたが知覚している具体的な世界を映し出している・・

という感覚が、
これまでになくリアルなものとして感じられてきた。

 


「安全ではない」

という抽象的な感覚がまずあって、

それを埋めるために、

この具体的な世界で、
具体的なけんたという人間を使って、

何か安全を保証してくれそうな正しさ、まわりからの評価、評価者からの評価みたいなものを勝ち取らんといけん。

そういうふうにしてけんたの世界が出来上がっとるように感じた。

 


(この「安全ではない」という根源的な抽象的感覚は
本当のことなんだろうか??

これを感じ続けたくはない。)

 

 


そのあと平安へのツールをやってみて、

「D:信念」としては

 

「私は安全が保証されていない、まわりから分離して見捨てられた、よるべのないショック状態にある存在だ。」

 

という言葉になった。

 

ショック状態で冷たく固まっている。

 

自分のなかがこんなに冷たく固まってしまっていたのか、というのも
初めて感じるかのように感じられた。


何か、これまでのけんたが知覚してきた人生を
説明してくれる感覚のようにも感じられた。

 

 


今回のこれ、
ちょっとしたファンクションがきっかけのように見えるけど、

自分にとっては非常に大きな気づきと癒やしの機会を与えられたように感じられる。

 

 

そして今日、
外に出て歩き始めたとき、

一つ前のブログ記事で書いた、

この人生の終わらない問題だった
「胸・喉の奥の圧迫感からくる身体のゆがみ(極度の猫背)」が

記憶にないくらいのレベルで解消されているのを感じた。

 

何が起こっているのかわからないし、
喉の奥のかたまりはまだまだあるし、
この解消された感じが続くかどうかもわからないけど、

たしかに救いとか奇跡というのが

心を向けるべき場所にしっかり向けられたとき、
わかるようにして与えられる・・

ということを教えてもらえているように感じています。


ありがとうございます。

 

 

 

解決はこの世界にはない

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山を登る準備についてはひろがりを感じ続けていて、
からだのコンディションを整えたり、
道具について調べたり、
実際に高尾山に練習に行ってみたりすることにも
広がりを感じていた。

昨日、練習で2回めの高尾山に行ってきた。



身体のコンディション的には、
はじめて登ったときよりも全然いいように感じていて、
「前回よりはラクにスピーディにのぼれるはずだ」というような期待が心の中にあるのに気づいていた。

でもやっぱり肩に負担のかかる簡易的なリュックで7kg背負って急坂を登るときは
けっこう息が上がる。

 




自分は成人したときくらいから
喉・胸のあたりに大きなつっかえるもの、圧迫感を感じていて、
それがずーーーっととれないというのがひとつの人生の問題のようになっていた。

 

息を切らしつつ山を登りながら、
この胸の奥の圧迫感が自由な呼吸をさまたげているように感じられてきて、

「この胸の奥の圧迫感を解放せん限り、富士山には登れんのんじゃないか!?」

という思考がでてきて、
なんとかしてこの胸の奥の圧迫感という「問題」を解決せんといけん、、
というふうな思考になっていった。

 

でも歩きながらふと、
「問題の解決はこの世界にはない」
ということが思い出された。

 

ああそっか!

忘れとった。

 

それがなんで解決になるんかはわからなくても
ガイダンスに耳を傾けることにしか解決はないんだった。

そのことを思い出したとき、
そういえばこの「山を登る」という行動についても、

「前よりコンディション上がってるから、スムーズに速く登れるはず」
「これくらいのペースで進んでいかんと」

というふうに
自分の思考にこだわりながら
自分の思考をたよりに
登っていたことに気づかせてもらえた。

 


ここで立ち止まることができた。

 


そうして、
この胸の奥の圧迫感という「問題」についても
その解決はガイダンスに従うことにしかないことを思い出しながら、
今歩いているその一歩一歩について耳を傾けながら登る・・
というふうに変化した。

 

一歩一歩の踏み出しについて、たずねる。

 

それがなんでこの「胸の奥の圧迫感という問題」の解決になるんかは自分にはわからんけど、
たしかにこれが「問題」の解決になるんじゃというふうに感じられた。

 

一歩一歩について尋ねながらすすむということをやっていると、
「今」だけがあるという感じがして、いいように感じた。

 
そのあとは
「この胸の奥の圧迫感を解放せんと高い山には登れん・・!」
というような思考はどっかに行ってしまった。

 

 

そして下山しているとき、
どういうわけかとても気持ちよく歩けている感じがして、

思わず笑いがこみあげて、

ありがとうございます、、

という言葉が上がってきて口にしていた。

 

 

 

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個人と神

(Davidの本に触発されて書いたメモ。)

 

神から、全体から、真の自己から、

離れてしまったという巨大な恐れ。罪悪感。(実際は離れられてないのに・・?)

それらを薄めて隠すために個人がある。

個人とは、それらを薄めて隠すためのものでしかない。

個人という「薄め剤」をとおして投影を使うことで(それにより恐れや罪の原因をこの世界に見ることで)
根源的な恐れや罪悪感に触れずにすませようとしている。

薄めて隠すためにのみ作られた個人という概念。

だから個人があるという前提や
個人の価値観にもとづいて
どうこうしようとしたり何か物ごとをうまくいかせようとしたりしても、
絶対的にどうしようもない。どうにもならない。

「神よ、あなたの力をあらわしてください」と祈ること以外に、

どんな価値も力もない。