個人と神

(Davidの本に触発されて書いたメモ。)

 

神から、全体から、真の自己から、

離れてしまったという巨大な恐れ。罪悪感。(実際は離れられてないのに・・?)

それらを薄めて隠すために個人がある。

個人とは、それらを薄めて隠すためのものでしかない。

個人という「薄め剤」をとおして投影を使うことで(それにより恐れや罪の原因をこの世界に見ることで)
根源的な恐れや罪悪感に触れずにすませようとしている。

薄めて隠すためにのみ作られた個人という概念。

だから個人があるという前提や
個人の価値観にもとづいて
どうこうしようとしたり何か物ごとをうまくいかせようとしたりしても、
絶対的にどうしようもない。どうにもならない。

「神よ、あなたの力をあらわしてください」と祈ること以外に、

どんな価値も力もない。