プライベートな心と永続するよろこび

 

「けんたという個人」を舞台にして現れているように見える、
「けんたという個人の状況」を使って正当化されようとしているように見える、
愛・神にたいする「わたし」の障壁をあらわにして、ゆるすこと。

そうして、罪も恐れも怒りも原因はなかったんだ、ありえなかったんだ、
完全な愛、永続するよろこびと平安以外ありえなかったんだと認識すること。

それを何よりも最優先にしたい。第一にしたい。

 


あきなさんにエクスプレッションさせてもらったとき、

「けんたがいないように感じた」
「けんたがエクスプレッションをしている様子が、どんどん仮面・よろいを脱ぎ捨てていっているように見えた」

とシェアしてもらえたことは恩寵のように感じられて、ありがたかった。

自分ではそのときそこまで「けんたはいない」という風に感じれていなかったけど、
きょうだいからそのように知覚されたと言ってもらえることで広がりのようなものとありがたさが感じられた。

 



昨日はファンクションにまつわるレイさんの何でもないコメントに、とてつもない怒りが湧いてきた。

その怒りと、怒りと攻撃を正当化する理論を組み立てようとする思考の動きが内側でありありと展開するのを見ながら、
自我という思考体系は本当にあらゆるものを利用して、
何かあればすぐに飛びついて利用して、
怒りや被害者意識を正当化する機会を手ぐすね引いて伺っているんだな・・・!
というのも思い知らされたように感じた。


レイさんのコメントがグループメッセンジャーへのコメントだったらそうしようとは思わなかったかもしれないけど、
コメントが個人メッセンジャーだったことが理由となって、そのとき自分のなかに起こっていた状況を伝えるためにzoomをさせてもらった。

つながってエクスプレッションさせてもらったけど、
そのときは怒りと被害者意識を正当化しようとする動きがかなり強く、ああこれは自我の言い張りやな、と感じながらでしかエクスプレッションできなかった。

そのときはそれはそれでしょうがない感じがして、ただエクスプレッションするだけで終わりにさせてもらった。

 

 

そのあとしばらく怒りが湧き上がるのを感じていたけど、
感情の激しさそのものは感じつつも、
どこかゆるんでいるというか、
本当にこの怒っているらしいけんたというキャラクターはいないのかもしれない、、
という感覚がほのかに感じられた。

また、このストーリーにまつわってレイさんにたいするわだかまりみたいなのができるかと思ったけど、それもこのストーリについてはないように感じた。

 

 


その後、最近、また初めてかのように触れさせてもらえているデイヴィッドの本(「This moment is your miracle」)の続きを読んだとき、何かまたすごく深く伝わってくるものがあった。


「Private thought」についての章。

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(↓以下引用)

 

私たちの思考だけが、(プライベートな何かがあるように見える)この世界をつくっています。

ーー中略ーー

プライベートな思考をもったプライベートな心が存在する、というコンセプトが、「人間」という条件づけの根底にあります。

「人間」はプライバシーや自立性・独立性に価値を置きます。
これらが人間を人間たらしめるのだ、と言われます。

ですがこれは見せかけのゲームであり、自我の策略です。

 

 

こうした「真実ではないコンセプト」(人のプライバシーや自立性・独立性に価値があるというコンセプト)が、
「人間」というフィクション、
つまり「個人」や「分離」があり得るというフィクションを生み出しています。



このフィクションのなかではそれぞれの人が自分自身の道を歩み、

明確に分離したそれぞれの人生を送り、
ある時にのみ別の人たちと出会う・・ように見えます。

このフィクションは、決して私たちに一貫したよろこび、幸せ、平安、満足をもたらしません。

分離の信念から生じた「プライベートな心」「プライベートな思考」は
私たちを時間と空間のなかで迷わせます。

私たちは心を開いて、心を共有する必要があるのです。

 

 


(↑以上引用)
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プライベートなこころやプライベートな思考がある、ありえる、と信じている限り、
常に状況(への期待)にもとづいたアップ↑やダウン↓があり、
一貫したよろこびや幸せ、平安、満足はありえない、、、、

というのが、初めて少し感じ取れたような感じがした。

 

 

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(↓以下引用)

 


心の中のものごとを自分のなかに保っておきたい、
共有したくないという衝動は、
「自分を守りたい」という衝動から来ています。

でも、「自分を防衛する必要性」は、
私たちの自己についての幻想と同一化してしまったときにのみ生じるものです。



上がってくるちょっとした思考や、軽い心配事、小さな悩み事に気づいたとき、
それらがやってきた心の奥へと追いかけてみると、

そこには本当の自己ではない「自分」のイメージがあります。

これは本当の自己に取って代わるために作られた、ひとつのピクチャーにすぎません。

 

 


(↑以上引用)
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たしかに。

上がってくるどんなささいな思いも、
それを「いつもの当たり前」としてスルーせずに
その思いが生まれた根底へと追いかけていくと、
そこには何やら
「分離した、罪深いプライベートな思考を抱えこんだ、ひどくみじめな何か」
という自己イメージのようなものがあると感じられる。

 

こんなみじめな自己イメージを「これが自分だから守りたい」と思って、
そのために
プライベートな思考を内側に保っておきたいということをやってるのか。

 

 

 

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(↓以下引用)

この世界では、良いことや悪いことが起きるわけではありません。

どんな形があらわれようとそれらの形を判断せず、
それらすべてを
自分の恐れや疑念、信念を露わにする機会として捉えることを学べばいいのです。

 

私たちは物事を背負い込むこと、
個人的に受け取ること、
それによって嫌な気分になること、
そして自分は何かをシェアする価値もない、無価値な存在だと感じることにあまりにも慣れすぎてきました。

 

「外側の世界を経験し、外側の世界を知覚する」ということは、

プライベートな思考を隠し、
プライベートな思考を持ち続けることから生じています。



あなたが自分の思考や信念についてもっと自覚するようになったとき、
形の上で起こるように見えることが、
自分の内なる感覚の経験とつながっていることを発見するでしょう。

内側の世界と外側の世界は本当は違うものではなく、
溶け合っているものなのです。

心の外側に世界があるように見えますが、実は外には何もありません。

「外側」は「心」と同じ意味なのです。

 

つまり、対人関係の問題は本当は存在しません。
あなたは本当は身体的な問題を抱えていません。
環境についての問題も、本当はありません。

すべてはあなたの心のなかにあるのです。
すべては精神的なものなのです。

 

 


(↑以上引用)
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プライベートな思考、プライベートな心がありえるというコンセプト=誤ったフィクションが、
「外側の世界」というものがあり得る、というコンセプトをも生んでるのか・・・・!

 

「外側」がある以上、
「外側」にほんろうされる被害者になれるし、言い張れるし、
そんな「外側」を攻撃することも正当化される。

 

自分のことをプライベートな心やプライベートな思考をもった存在だと信じ続けている限り、
↑これ(「外側」が存在する、被害者・攻撃劇場)からは逃れられん、っていうことか。


そりゃあ永続するよろこびや幸せや平安や満足は、プライベートな心と思考があると信じている限り得られんわけやな。

 

 

 

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(↓以下引用)

心を癒やし、自由とよろこびに開かれていくためには、
「もっともプライベートな思考」を開放することで大きな変化が起こります。

他のすべての「プライベートな思考」の下に、
心にとどめておくのが耐えられない、
コアの秘密の思考があります。

それは「私は神から分離している」(=私は完全な愛、平安、よろこびから分離している)という考えです。

このコアのプライベートな思考が
「時間という信念」を誕生させ、
全世界を投影しています。



この思考(「私は神から分離している」)は、
「これは楽しいことだ」と信じられている物事だけでなく、
「恐怖を感じる対象」すべてを「外側のどこかにある」ことにしてしまいます。

このようにしてよろこびや痛みといった信念が生じ、
自分は体であるという信念を強化しようとします。

体を重要視し、体と一体化しようとする思考は、
「(神・愛からの)分離というコアのプライベートな思考」を覆い隠すための
希釈されたプライベートな思考といえるでしょう。



(↑以上引用)
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ここに書かれていることが、
自分のなかに深く浸透していきますように。

私にあると信じているプライベートな思考、プライベートな心が
光のなかで溶け去っていきますように。

そのために、わたしの時間が使われますように。