昨日書いたインストゥルメントフォーピース 2020年11月18日

ジーザス、
今日のカフェのめぐりあわせも、動揺をみるための完璧な采配なんですね・・・。
かなり動揺してて嫌な感情を感じてるけど。
この嫌な感情の、たったひとつの真の原因にさかのぼっていく必要があるんですね。
祈りのこたえを与えてくださり、ありがとうございます。

 

 

私が
カフェの電源席でとなりの高校生カップルが仲よさげに話し続けていることについて考えるとき、
嫉妬、怒り、無価値感、絶望感を感じます。

なぜなら、若くまだ未成年なのにすでに「おまえ〇〇だよ」とか言いながら(私が得たことのない)男女間のよろこびを知っている、そしてよろこびをうけとりながら好き勝手に生きている高校生カップルが責められるべきで、
あるいは未来に
私がいまだにこの賜物(男女間のよろこび)をゲットできてないことや私がその価値がない存在だということがバレたり、そのことで馬鹿にされたり、無価値だと断罪されること、そしてその賜物を当たり前のように持っていて、好き勝手にこの世界のよろこびを生きる人に差を見せつけられ続けること
が起こるのを恐れているからです。

これらのことは、私が
人には当たり前のように与えられているよろこびの賜物が自分には与えられていない、無価値で欠けた限界のある存在だということについて正しいことを証明しています。


私は今の感情を望まない。

だから、私が知覚している内容が真実ではない可能性を考える準備ができています。

癒やしのプロセスの一部として、私はこの動揺(に私が与えた意味)を超えてみること、
そして心の内側を見ることを意志します。

 

私は以下の事象のなかで自分が演じている役割を、
罪悪感なしに見る方法があることを学びたいだろうか?

「カフェの電源席でとなりの高校生カップルが仲よさげに話し続けていることについて考えるとき、

嫉妬、怒り、無価値感、絶望感を感じます。

なぜなら、若くまだ未成年なのにすでに「おまえ〇〇だよ」とか言いながら(私が得たことのない)男女間のよろこびを知っている、そしてよろこびをうけとりながら好き勝手に生きている高校生カップルが責められるべきで、
あるいは未来に
私がいまだにこの賜物(男女間のよろこび)をゲットできてないことや私がその価値がない存在だということがバレたり、そのことで馬鹿にされたり、無価値だと断罪されること、そしてその賜物を当たり前のように持っていて、好き勝手にこの世界のよろこびを生きる人に差を見せつけられ続けること
が起こるのを恐れているからです。」


この知覚のなかで自分が演じている役割を、
そのもっとも深いところからすべて、罪悪感なしにハッキリと見ることができるのであれば、
その方法を学びたい!

 

私は以下の知覚について、自分の見方こそが正しいんだ!と言い張りたい望みを手放したいだろうか??

「カフェの電源席でとなりの高校生カップルが仲よさげに話し続けていることについて考えるとき、

嫉妬、怒り、無価値感、絶望感を感じ、
若くまだ未成年なのにすでに「おまえ〇〇だよ」とか言いながら(私が得たことのない)男女間のよろこびを知っている、そしてよろこびをうけとりながら好き勝手に生きている高校生カップルが責められるべきで、
あるいは未来に
私がいまだにこの賜物(男女間のよろこび)をゲットできてないことや私がその価値がない存在だということがバレたり、そのことで馬鹿にされたり、無価値だと断罪されること、そしてその賜物を当たり前のように持っていて、好き勝手にこの世界のよろこびを生きる人に差を見せつけられ続けること
が起こるのを恐れています。

これらのことは、私が
人には当たり前のように与えられているよろこびの賜物が自分には与えられていない、無価値で欠けた限界のある存在だということについて正しいことを証明しています。」


私のこの見方が絶対ではなく、他に見方があるのだとしたら、それを教えてほしい。
とてもつらいから。
この知覚について他の見方があるのであれば、それを教えてほしい。


私は自分の見方がただしいと主張する代わりに
幸せであることを望む。

自我という歪んだ考え方・見方を通して、
私は自分のこの動揺の原因と解決方法が、心の外側にあると知覚しています。

この投影は非常にリアルに見える。
なぜならその目的は、心が内側を見ることを妨げることだからです。

 

もし私の動揺の原因とその解決策が心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態について実に無力ということになる。

私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、
私が無力さを感じる理由であり、

若くまだ未成年なのにすでに「おまえ〇〇だよ」とか言いながら(私が得たことのない)男女間のよろこびを知っている、そしてよろこびをうけとりながら好き勝手に生きている高校生カップルや、
未来に、
私がいまだにこの賜物(男女間のよろこび)をゲットできてないことや私がその価値がない存在だということがバレたり、そのことで馬鹿にされたり、無価値だと断罪されること、そしてその賜物を当たり前のように持っていて、好き勝手にこの世界のよろこびを生きる人に差を見せつけられ続けること
を恐れていることが、
私の動揺の原因に見える理由なんです。

 


「カフェの電源席でとなりの高校生カップルが仲よさげに話し続けていることについて考えるとき、

嫉妬、怒り、無価値感、絶望感を感じ、
若くまだ未成年なのにすでに「おまえ〇〇だよ」とか言いながら(私が得たことのない)男女間のよろこびを知っている、そしてよろこびをうけとりながら好き勝手に生きている高校生カップルが責められるべきで、
あるいは未来に
私がいまだにこの賜物(男女間のよろこび)をゲットできてないことや私がその価値がない存在だということがバレたり、そのことで馬鹿にされたり、無価値だと断罪されること、そしてその賜物を当たり前のように持っていて、好き勝手にこの世界のよろこびを生きる人に差を見せつけられ続けること
が起こるのを恐れています。」

これらすべては、

私が
人には当たり前のように与えられているよろこびの賜物が自分には与えられていない、無価値で欠けた限界のある存在だという信念の結果としてあらわれたものです。

 

私が誰かや何かにたいして動揺するのは、
その誰かや何かが自分が心の内側に見ないようにしている信念を、映し返しているときだけです。

私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(心の中の決断として)見ることを妨げるためであり、

その代わりに心の中の信念を見ないようにするために自分で作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを維持し続けるためなのです。


この心のトリックは、罪悪感や恐れの原因・責任をどこかに移し替えるように見えますが、
それによって動揺の感覚を維持し続けることになります。

自己概念、他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分を肉体と肉体の世界に制限し、
真のアイデンティティであるスピリチュアルな抽象性を否定することになります。

すべてのあらゆる動揺を手放すその第一歩として、
自分の心の外側にあると思っていたものを、
自分の心の内側に見ることを私は望みます。

 

「カフェの電源席でとなりの高校生カップルが仲よさげに話し続けていること」に動揺することは、

若くまだ未成年なのにすでに「おまえ〇〇だよ」とか言いながら(私が得たことのない)男女間のよろこびを知っている、そしてよろこびをうけとりながら好き勝手に生きている高校生カップルや、

未来の考えである
私がいまだにこの賜物(男女間のよろこび)をゲットできてないことや私がその価値がない存在だということがバレたり、そのことで馬鹿にされたり、無価値だと断罪されること、そしてその賜物を当たり前のように持っていて、好き勝手にこの世界のよろこびを生きる人に差を見せつけられ続けることへの恐れ
が、
私の罪悪感、恐れの原因であることにしようとする、ひとつの企てにすぎない。

 

「カフェの電源席でとなりの高校生カップルが仲よさげに話し続けていること」が
私が求めているものに反するとき、
動揺することには価値があって正当化できるように見えます。

私が求め、期待している(いた)のは、

「自分のまわりにいる人たちも、自分が得られない男女のよろこびという賜物を得られていないということ」

です。


私はまだ、
「私は人には当たり前のように与えられているよろこびの賜物が自分には与えられていない、無価値で欠けた限界のある存在だ」ということを信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
「自分のまわりにいる人たちも、自分が得られない男女のよろこびという賜物を得られていないということ」
が必要だと考えています。

この不足の信念と、そこから必然的に生じるこの渇望を持ち続けることは、
私にとって心の平安よりも重要なことだろうか???

いいえ、
私にとってはもう不要となった、この不足の信念と、そこからの渇望を私は手放したい。

それよりも心の平安を私は望みます。

 

この世界のすべてのものごとは、ひとつになって私の最善のために働いてくれています。

私が自分の動揺の原因だと思っていたものは、まったくそうではなかった。

外側の知覚に動揺する、という選択は、
動揺の真の原因=今この瞬間心のなかでくだされている「不足と欠乏、無価値さを信じる」という決断と、その決断の力を見ないという選択なんです。

これは、「今感じてること」の原因が過去・未来にあり、
現在はその結果だということにしようとする企みなんです。


今この瞬間、私がもっとも求めているのは心の平安です。

私は自分にとってのただひとつの目的である心の平安と再びつながるため、

「私は、人には当たり前のように与えられているよろこびの賜物が、自分には与えられていない無価値な存在だ」

という信念に疑問を呈し、

「自分のまわりにいる人たちも、自分が得られない男女のよろこびを得られていないということが必要だ」

という欲求を、私の自由意志にもとづいて手放します。

 

心の平安とは、
今この瞬間感謝のなかで下すことのできる決断です。

罪悪感や未来への恐れがあり得るように思えたのは、
私が「今」の原因は過去や未来にあるんだ、
という信念にすがりつこうと決めたからでした。

私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、
解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。


私は、今までこの世界にあると思ってきた動揺の原因が、
実は心のなかの吟味されてこなかった信念と決断であったと認識できたことに感謝します。

私は私自身の平安のために、もう一度決断しました。