安心と信頼

 

長野リトリートを通して、

こころが、初めてかのように「信頼」に触れ始めたように感じた。

 

セーフティネットのように感じられるその信頼と安心の上で、

兄弟たちどうしのぶつかりあいのようなことが起こって、

そうやってマスクの下に隠されていた獰猛さや攻撃的な思考、分離、特別性の思考が露わにされていって、

それが本当の現実ではなかったんだとあきらかにされていく。

 

 


自分の場合は、サーチファンクションのミーティングでなおこさんが思ったこと感じたことを素直に率直に伝えてくれたおかげで、

役割や、ヒエラルキーのなかのポジションといったマスクの下にこれまでずっと隠してきてこれからも隠そうとしていた、

自分のなかの獰猛さを露わにさせてもらえた。

 


最初怒りのような感情としてその獰猛さが上がってきたとき、

なんとかこれを冷静に自分のなかで処理できるのかな?という思考が巡った。


けどこの前なおこさんとれいさんが見せてくれたこと、
その話を聞いたとき、たしかに以前は感じてなかった信頼セーフティネットがあると感じられたことを思い出し、

「そうか、ここでこの上がってきてるやつをそのまま出しても大丈夫なんだ!」

「自分で判断して【処理】しようとしたり、出し具合を調整したりしなくていいんだ!」

というのを感じて、そのようにさせてもらった。

 


上がってきた獰猛さをそのまま表現しながら、
同時に、たしかに底のほうには信頼と安心があるように感じていた。

 

 

 


こうしてマスクの下にずっと隠しておくつもりだった獰猛さが露わになると、

自分がどんなマスクをつけていたのかも露わにされたように感じた。

 


「役に立つ者」「使えるやつ」「ヒエラルキーのこの辺のポジションにいる者」

こういう特別性をマスクにしていて、その下に完全に隠れようとしていた。

 


そして自分自身のこういう特別性のマスクを成立させるために「自分ががんばる」し、

それだけでなく、

目の前にあらわれるあらゆる人にも、必要性に応じたマスクを押し付けていた。

 

「オレより劣った者」「オレよりヒエラルキーが下の者」

そういうマスクを押し付けていた。

そのように見るためだけに人々を自分のまわりに配置し、設定(マスク)を押し付けていた。

 


そうすることで「自分のマスク」を成立させ、
その下に、自分の中にある、自分のものだと思っている獰猛さや攻撃性、特別さを見る思考を隠そうとしていた。

 

 


このことが自分にあきらかにされたとき、ひどく感じたのは

「おれは目の前におる人のことを何も知らん・・・」

ということだった。

 

自分の特別さのマスクを成立させるために、目の前の人にマスクを押し付けていた。


だからどれだけ「コミュニケーション」のように見えることが起ころうと、

おれは目の前の人に何も触れとらんし、その人の何も見とらんし、見ようともしとらん。

目の前におるのにその人のことを何も知らんのんじゃ・・・と、愕然とした。

 


今回のなおこさんとのコレをとおして、

それをやめていきたい、

目の前におる人を知りたい、触れていきたい、

マスクを剥ぎ取りたい、目の前の人を「オレのマスク」から自由にしたい、

マスクの下に隠してきたものに触れていきたい、

どんどん触れていきたい、

露わにして触れていきたい、

という意欲に触れさせてもらえた。

 

その意欲に触れさせてもらえたのが何よりありがたい。

 


聖霊が完全に導いてくれている。

聖霊、なおこさん、いっしょに見守ってくれたかなえさん、あきなさん、

このプロセスをいっしょに歩んでいってくれているすべての人たちに感謝します。

これからもよろしくね 🎉🎉🎉

 

 

 

 

 

 

おし〜〜えて〜おじい〜さん〜♪👴

おれはかんぜんにくるっとる。

 

じぶんがとくべつなものであるとしんじるために、そうじぶんがなっとくできるようなひとやものごとをはいちしとっただけやん。

そうかいしゃくしやすいように、こころがなっとくしやすいように、じぶんではいちしとっただけやん。

 

このぐるーぷのなかではえいごができるほうというせっていにして、えいごがあんまりできんひとらをまわりにはいちして、くるまがうんてんできんひとらをまわりにはいちして、じぶんがしきるいちになるようなせっていとじんいん、しこうやかんじょうをはいちして、とくべつやとおもいこもうとしとっただけやん。

 

そうやってはいちしたつもりになっとるこのひとらのこと、おれはなんもしらんやんけ。なにひとつしらん。

そのひとらをみるもくてきが「おれのとくべつせい」で、

おれはとくべつなんじゃっていうますくつけとったけーの。

 

このますくのしたにはめっちゃどうもうなこうげきせいがある。

 

それをふじょうさせるのゆるしてくれるひとたちはありがたい。

でもそのひとらのこと、おれはぜんぜんみえとらんしふれとらん。

おれはかんぜんにくるっとる。


くるっとることをしんそこうけいれたい。

くるっとることをしんそこゆるして、そのむこうのしょうきをみせてもらいたい。

そのひとがしょうきのもとではなんなんか、おしえてほしい。






 

 

 

 

 

 

 

聖霊は今この瞬間つねに最高を与えてくれている

 

welcomejwithintention.hatenablog.com

 

 

 

ファンクション2日めは
じゅんこさんが原宿駅まで三脚を持ってきてくれて、

原宿駅から二人で15分くらい歩いて三脚を返しにいくというファンクションだった。

 


原宿駅なので、
けんたが執着と憧れをもってやまない、
若くてかわいい、きれいな女性がそこら中を歩いている。

 

そんな中、
中年のおっさんおばさん二人で大きな三脚を持ち、
しかも祈った結果、「はじめてのお使い」みたいに二人でひとつずつ取っ手をもって歩くという、
このことにまつわる恥ずかしさやジャッジの思考が当然のように上がってきていた。

 

 

でも前日のプライベートソートの打ち明けがあり、
さらに

「オレのプライベートな思考、プライベートな世界を全世界、聖霊にすべて公開したい!」

という心底からの欲求に触れられていたおかげか、

どういうわけかそれらの思考が上がってきてもあまり嫌な感じではなく、

ただただそれを全世界に公開するんや!という意志を感じつつ歩きながら、

それらの上がってきた思考がどんどん空に向かってささげられていくように感じていた。

 

その感覚は未知のように感じられたけど、広がりを感じるものでもあった。

 

そしてどんな思考が上がってこようと、受け入れることができる、、というようなうれしさのような感覚もあった。

 

 

 


三脚を返し終わって、とりあえずファンクション完了となったとき、
このまま帰るのかどうなのか、まったくわからない感じだった。

 

そこでまた二人で祈る。

 

「とりあえずどこかカフェのようなところで、
先にファンクションにまつわる報告をしたほうがいい感じがする」
となって、

こっちの感じがする、と二人が感じた方向へ歩き始めた。

 


竹下通り方面へ向かう道で分岐がある場所へきたとき、

自分は立ち止まらずに竹下どおり方面へ行こうとしていたところに、

じゅんこさんが立ち止まってくれた。

 

そこでじゅんこさんが「こっちな感じがする」といった方向に
気になるような、惹かれるような、看板が見えた。

 

 

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立ち止まる前にパッと見たときにも惹かれていたかもしれない。

でもスルーしてしまうところだった。

じゅんこさんが立ち止まってくれたおかげで、
「あの看板が気になっている」と口に出して言うことができた。

 

結局そのお店に入ることになって、そこで起こったことはじゅんこさんのブログに書いてあるとおり。

 

mokumokuchang.hatenablog.com

 


自分はじゅんこさんほど深く感謝の思いに満たされるということはなかったけど、
お店の人とのコミュニケーションも含めて、
すごくあかるくやさしい何かに包まれたような時間だった。

 

お店の名前「HOLO FAMILIC」の由来となった、馬車の幌や月がやさしく家族をつつんでいる、そのイメージそのままに。

 

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その後、そのお店で教えてもらったおしゃれカフェの
空が見えるテラスでランチを食べながら、
また前日のような打ち明けさせてもらえる時間があった。

 

このときに特に出てきたのは、
「この学びの道において、お前らではなくオレこそが役に立つものであるのだ!」
というやつ。

 

自分が大きく影響を受けている映画「アイランド」のコメンタリーについて、これをどうやって延長していいのか迷っている・・
というのをじゅんこさんにシェアさせてもらったところから、暴露されていった。

 


「オレがこのデイヴィッドのコメンタリーに目をつけたんや」
「めっちゃお前らの役にたつじゃろうが」
「オレのおかげでお前ら一歩さとりに近づいたやろ」


こういう思考を持ちながら、延長しようとか考えていた・・・。。😅

自分の中にこういう思考はない、というフリをしながら。😭

 

 

恥ずかしかったけど、打ち明けさせてもらえてよかった。

 

こういうプライベートな思考をぜんぶ表にあげさせてもらえて、

初めて、

さらにその下に隠してある悲しみとか泣き叫びとか絶望にも触れていけるんだと思う。

 

 


ランチの時間、他に何が話されたか具体的にはあまり覚えていなけど、
前日のテラスでの時間と同じく、

すごくゆたかでありがたい時間のように感じられた。

 

 

 

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このランチの時間も、あのお店での時間も、
さっきの帰り道の分岐点で「こっちに行く感じがする」というインスピレーションにしたがった結果与えられたものだった。


ランチを終えて、同じ分岐点の場所に戻ってきたとき、
さっき来たときとはまったく違う現実にいるように感じられた。

 

 

 


帰り道、竹下通りを二人で歩いていたとき、

さらに強く

「プライベートな思考をすべて全世界に、スピリットに公開したい。捧げたい」

と感じながら歩いていた。

 

竹下通りを歩いていたり、道端にたむろしている大勢の人たち。

そのなかを歩きながら、何か今までと全然ちがう感覚を感じていた。

 

自分という個別の人間の境界がなくなって、目の前の大勢の人たちのなかに溶け出していくような、広がっていくような感覚だった。

 

 

 


この2日間、じゅんこさんと二人でいたおかげで、
一人だと立ち止まらないところでも立ち止まってたずねる、
ということをやらせてもらえたと感じる。


そしてそうやってたずねさえすれば、
聖霊がつねに今この瞬間与えてくれている最高のなにかにチューニングをあわせることができる、、

ということを実地で体験させてもらえたような2日間だった。

 


じゅんこさん、聖霊、ありがとうございます😌🙏😌

 

 

 

 

 

 

ありがたい、仲間とのファンクション

じゅんこさんとやった、2日間の三脚返却ファンクション。

長野で感じた変化から、これからはまったく新しい歩み方になるということ、
それがどんなものなのか、はっきりと教えてもらえたような2日間だった。


本当にありがとうございます。

 

 

初日は三脚を受け取ったあと、

テラスモールのテラスでとりあえず座って、今後どうするかについて祈るための時間となった。


形としては二人の人間が座って話をしたりいっしょに祈ったり、、ということが起こっていたようにみえるけど、

そういうことをしながら、

だんだんと

「私たちのからだはスマホと同じ、コミュニケーションのためのデバイスにすぎない」

ということが入ってくる瞬間が増えていった。

 

「使われる道具として、じゅんこもけんたもこの三脚も変わりがないんだね」といったことを話しながら、

それが嫌な感じではなく、幸せと笑いがこぼれた。

 

ただのデバイスとして、自分たちに違いがないという感覚が幸せに感じられた。

 

 

バイスにすぎないんだから、
いっしょに祈ってデバイスの使われ方を教えてもらうしかない。

そういうなかでも時には
「知ってる」ところから無意識に動き出そうとすることが何度もあったけど、

一人ではなく二人でいたおかげで、
立ち止まって耳を傾けることを思い出させてもらえたように感じた。

 

ファンクションをとおして「けんたもじゅんこも違いがない、ただのデバイス感覚」
を感じさせてもらえること、

そうやって「個人固有の何か」を手放した先に何があるのかを垣間見させてもらえるのは、
とてもやさしい導きのように感じられた。

 

 

 

また、
じゅんこさんが率先してプライベートソート(プライベートな思考)を打ち明け始めてくれたことに助けられて、

お互いに、自分も、
いろいろ打ち明けていくことになった時間が、
何かわからないけどとても大きなシフトをもたらしてくれた。

 

 

まず直近であった、
長野リトリートのみんなの音声ファイルをとりまとめたことについて、

「ほら、オレはこんなに役に立つことができるんや」
「お前らとは一段レベルが違うんや」
「オレのおかげやろうが」
「そうや、そうやってオレにお礼を述べるんや」

こういう思考があることを打ち明けさせてもらえた。

 


長野リトリートについてのブログを書けなかったことについても、

「奇跡を体験した、オレが書いてやる」
「オレのすばらしい経験がまわりにいい影響を与える」
「オレのすばらしいシェアがオレの立場を強くする」

とかの思考があったから書けなかった・・というのも暴露された。

 

 

恥ずかしさや失敗感を感じながら、

こういうごくごく狭い場所、けんたのプライベートワールドの内側でプライベートな思考を持ってイキっとることを自覚にあげていくと、

とてつもない気持ち悪さが上がってくる瞬間が何度かあった。

 

 

でもそういうのを繰り返しながらも、
自分がもっとるプライベートソート、
それをもとに生きとるプライベートワールドを打ち明けていくことにしか
行くべき方向はないというのも感じた。

 

 

 

その後、
けんたという人の設定のなかで大きな重要性をもっている、
若くてきれいな女性への執着と、それにまつわるもろもろのプライベートソート(可能性を高めるために若くみせんといけん、老いに抵抗せんといけん、など)も上にあげさせてもらえたとき、

そのプライベートな思考信念で覆われた、
その下にある悲しみを、
じゅんこさんが目撃してくれたようなことが起こって、

自分でもその泣き叫びに触れさせてもらえることが起こった。

 


ずっと泣き叫んでいた。

愛がわからなくなったといって泣き叫んでいて、

その泣き叫びを覆い隠すために

そいういうプライベートな思考信念でそこにフタをしていた。

 

「泣き叫んでいた自分のほうを見てあげてね」

「あなたは愛だよ」

そういう愛の言葉を伝えてくれるじゅんこさんの声を聞きながらその泣き叫びに触れていると、

「抱きしめたい」

というのが上がってきた。

 

しばらくその思いといっしょに過ごさせてもらえた。

 

その泣き叫びに触れさせてもらえたこと、

「抱きしめたい」という自分のなかの愛にも触れさせてもらえたこと。


とてもありがたかった。

 

 


こういう体験をさせてもらえるなかで、

今この瞬間のいのちの輝きを覆い隠すだけのプライベートな思考、

そんなプライベートな思考でつくったオレだけのプライベートな世界、

そういうのを本当にあきらめたい、手放したい、

という強い欲求が心の奥底から湧き上がってきた。

 

「公開したい。オレのなかにあるすべてのオレのだと思ってる思考、それによってつくっているオレだけの世界を、
全世界に、聖霊に、公開したい。

そうせんとムリ。
これ以上やっとれん。

本当にそうしたい!!!!」

 

 

この欲求に触れたくらいから、

プライベートソートって、ただたんに「人に知られたくなくて隠しとる思考」というふうにとらえとったけど、

実際はもっと根深いもので、

「けんたっていう分離した意識がある」という感覚を構成しとる思考全部がプライベートソートなんじゃ・・・

という驚きをともなった気づきのようなものがやってきた。

 

隠す隠さんに関わらず、
「これはオレの思考」と認めとる思考はすべてプライベートソートじゃと。


「他から分離したけんたという意識」の構成要素になっとる思考はぜんぶそうなんじゃと。


すると、

「プライベートな思考、プライベートな世界を手放す」ということは、

もじどおり

「けんたという分離した存在は存在しない」

ことを受け入れることになるんじゃ・・・!?

というのがやってきた。

 

神はego(自我)について知らないし、
神はプライベートな思考について何も知らない。

言葉では聞いていたこのことが、
初めてこのけんたという場所をとおして「ほんまかもしれん」と感じられ始めたような気がした。

 


この認識とも相まって、

本当にプライベートな思考、ブライベートな世界を手放したい!!!
それでしか平安はありえん!!!

という強い欲求に触れさせてもらえることになった。

 


このことが本当にありがたいと感じています。

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

プライベートな思考、プライベートな世界を捨て去りたい。

 

 

今日じゅんこさんと会って、

何かわからないけど強烈な経験を与えられ、

何か強力な欲求がうまれた。

 

 

 

プライベートな思考

プライベートな世界

神を除外した世界

恐れをベースにした世界


「けんたの思考」「けんたの世界」「オレの思考」「オレの世界」というプライベートな思考、プライベートな世界を捨て去りたい。

 

この前の長野リトリートでみんなをとおして、生まれて初めて感じさせてもらえたのは、

この「プライベートな世界」ではない、

それとはまったく違う、

本物のリアリティがあるんだ、ということ。

時間も空間もない、切れ目なく無限に広がるよろこばしい何か。

 


「役に立つオレ」「役に立てないオレ」「勝ててるオレ」「負けてるオレ」がいるプライベートな世界を捨て去りたい。

「若くてかわいい女を連れ歩きたい野望をもったオレ」「若くてきれいな女に相手にされず無価値感を感じるオレ」がいるプライベートな世界を捨て去りたい。

「プライベートな思考をさらすことに恥を感じるオレと、オレをジャッジする打ち明ける相手」がいるプライベートな世界を捨て去りたい。

 

 

「オレのプライベートな世界」で覆おうとしている、隠そうとしている何かに触れたい。

愛がわからなくなったと泣き叫んでいる何かに触れたい。

抱きしめたい。

 

 

聖霊、イエスさま、
私のプライベートな思考、プライベートな世界をすべてあなたにささげます。

 

きょうだいをとおして
気がつけるように助けてくださりありがとうございます。

 

 

 

 

映画「アイランド」 David Hoffmeisterによるコメンタリーを聞きながら書き取ったメモ。

bit.ly

 

https://www.spreaker.com/user/davidhoffmeister/the-island-august-14-2021

 ↑こちらがDavidによるポッドキャスト音声

 240分以上と長いので、とりあえず映画を見る前段階のコメント(43:48くらいまで)を聞きながら書き取ったメモ(はしょった和訳)。

 

 

 

 

 

「あなたは特別だ」|映画『アイランド』を見て

 

Davidの最新のSpreakerで話されていた映画「アイランド」が気になって見てみた。

 

近未来。大気汚染から守られ、管理の行き届いた安全で快適なコミュニティで暮らすリンカーン。彼やその他の住人にとっての夢は、地上最後の楽園といわれる"アイランド"へ行くこと。そしてその抽選会が毎日のように行なわれていた。だがある日、リンカーンは換気口から入ってきた一匹の蛾を見て、ある疑念を抱く。やがて彼が独自に調査を進めるうち、自分たちは保険契約を結んだクライアントへ臓器を提供するために生かされているクローンで、"アイランド行き"の名の下に臓器を摘出される、という事実を知ってしまう...。

 

youtu.be

 

 

 

かなりでかい何かを解き放ってくれるように感じた。

 

 

(以下ネタバレ注意)

 

 

 

今とにかく心に残っているのは、

臓器移植用の「製品」として、当初は植物のように育てられるはずだったクローンが、
実は人間のような意識や生活をもたないと肉体が維持できないのだとわかり、
そのために「人間としての記憶、教育の刷り込み」が行われている場面。


「製品」たちは四六時中モニターを見せられ、そのモニターによって記憶を刷り込まれるわけだけど、

その中で繰り返し繰り返し、

「You are special」あなたは特別だ
「You've been chosen」あなたは選ばれたのだ
「Very special」とても特別だ
「You are special」あなたは特別だ
「You've been chosen」あなたは選ばれたのだ
「Very special」とても特別だ

 

と刷り込まれる。


この場面が強烈に印象に残っている。

(人間としての意識をもつためには「特別だ」と刷り込む必要がある、というのが興味深い・・)

 


この場面を見ているとき、

あ、この、
今自分だと思っている、
他の人たちと区別できるという意味で「特別」だと思っている、
このわたしという意識も、

実はただこうやって
「あなたは特別だ」という声だけに何度も何度も耳を傾け続けることによって
そうだと思いこんでいるだけなんじゃないか???

あのクローンたちと同じように。

 

・・という認識が強烈にやってきた。

 

 

今まで無意識に、
アプリオリに(先天的に/ゆらぐことのない前提として)存在している」と感じてきた
「私という意識」は、

実はこうして「教育」されて、
「ある」と感じられているだけのものなんじゃないか・・

そういう感覚が強く感じられた。

 

 

そしたら、
もしこの内側の「あなたは特別だ」という声だけに耳を傾けるのをやめたら、
どうなるんだろう???

と、別の選択肢があることが感じられてきた。

 

「あなたは特別だ」という声に耳を傾けるのをやめたら、

それを信じるのをやめたら、

それを望むのをやめたら、

そうじゃない方を望んだとしたら、

いったいどうなるんだろう。

 


(今までこの内側の「あなたは特別だ」という声だけに耳を傾けようとしてきたのは、
あの「神から離れたら・・? 」という小さな狂った考えについていきたいと望んだからだろうか。


そしてこの「特別だ」が意味するのは、
神の一体性・完全性から離れるという意味でしかないんじゃないか。)

 

 

あのクローンたちが刷り込まれている場面が、
今自分の心のなかで起こっていることを見せてくれているように感じられて、
とても、とても助けになるように感じている。

 

ありがとうございます。