ただ、拒絶し続けている。
のりこさんのブログから。
「私は幸せを拒絶し続けている。愛を拒絶し続けている。」という認識。
完全に与えられている幸せや愛を拒否しながら、自分のちからで「なにか」ができるという信念だけをたよりに必死になっていた。
だから聖霊の声なんて聞く気がない笑。
「仕事」とか「生きること」の前提がまったくひっくりかえる。。。
「私は幸せを拒絶し続けている。愛を拒絶し続けている。」
これをやめることが、イコール聖霊にすべて決断してもらうということ。
自分で決め、自分で決断することで、
「幸せを拒絶し、愛を拒絶しつづけてきた」のか。。
「俺にとってはこっちのほうが幸せになれる(はずだ)」といいはることが、イコール愛と幸せを拒絶し続けるということだった。
だから真の愛と幸せを知るということは、完全に自分のジャッジを手放すということ。完っ全に。
何かを自分で判断したり決めようとしてるとき、
「私は今これによって幸せと愛を拒絶し続けてるんだ」と認識する。
この頭痛がなんだとか、どうすればよくなるはずだとか。そういうのも。
日本がどうだとか、あべがどうだとか、巨人がどうだとかも。
モテるほうがいいとか。人からこういうふうに見られるほうがいいとか。
そういうのも。
どっちがいいとかただしいとか、責めるとかも必要ない。
「自分の〇〇を聖霊にささげる」ということが、
それが正しいからとか、やったほうが幸せになれるはずだから、ではなく、
それがいちばんラクで自然だと心底感じられるから、そうだとわかるから、
という認識にひっくりかえっていくのでしょうか、、。そんな感じ。
「私は幸せを拒絶し続けている。愛を拒絶し続けている。」ことを認識して受け入れてはじめて「オープンになる」という可能性にたいしても開かれる。
TAKE ME HOMEのソレンの歌みたいに。
『「おれは信頼したい〜♫」はまだちょっとあなたには早いわね。』からの、
「おれは〜〜♪ 信頼してねーーんだ〜〜(どや)♫」
そしてたんに「私は幸せを拒絶し続けている。愛を拒絶し続けている。」
というだけの話なので、解放されている人と比較のうえの優劣も、いいわるいもない、というのも嬉しい。