特別な憎悪の関係と、特別な愛の関係と、こころを開けないということ。
昨日の夜、ひとり仕事場でいろいろ作業をしたあと、「よい人間であること」の条件づけが自分から取り払われいく感覚のなかで何かわからないけどギリギリな感覚が上がってきて、助けをもとめてほとんど叫びそうになった。というかすこし叫んだ。
ひとしきり叫びながらジーザスとマグダラのマリアに助けを求めたあと、どいういうわけか
「特別な憎悪の関係をみつめることを恐れないでください。
自由はそれをみつめることのなかにあるから。」
というコースの一節(16章セクション4段落1-1)を題材にして、テキストアニメーションをつくる練習をすることになった。
寝る前にそれをfacebookにアップした。
アップすることについてはやったほうがいいように感じたのだけど、何か間違ったことをしてるのではないか、カースティンやリビングミラクルズの人たちにジャッジされるのではないかという恐れもあった。
寝る前にアップしたけど、目が覚めると同時に罪悪感からいったん非公開に変更した。
でもそのときにすでにコメントがついていて、
それは前の職場の同僚からだった。
彼とは職場を離れて以来まったく接点はなくて、たまにコース関連のfacebook投稿にいいねやコメントをくれているのだけど、とてもそういうことに興味があるタイプに見えなかったので意外に感じている、という人だ。
コメントの内容は、
「『自由はそこにあるから』 どこ?」
というものだった。
最初は「非公開にしたし、スルーしよう」と思って、
次に「どこにあるんだろうね?笑」みたいなはぐらかすようなコメントを返そうとして、
それはなんか違うとなった。
そのときに感じたのは、彼も私の一部であって、そのコメントに不誠実な感じではぐらかすのは、自分を見捨てることだということ。
たとえ今自分には真実がなにかわからないとしても、どこか偉い人に真実についての責任をなげるのではなくて、自分が信じていることを自分に伝えるかのようにコメントをつけたいと思って、そうすることにした。
そのとき、
「特別な憎悪の関係をみつめることを恐れないでください。
自由はそれをみつめることのなかにあるから。」
というコースの一節に初めて接するかのように、深く自分ごととしてとらえることができると感じた。
人にその内容について伝えようとしたことで、より深くこの一節に直面せざるをえなくなったというか。
そうすると、自分がいかに自分に気づかれないように特別な憎悪を温存しようとしていたか、というのが見えてきた。
たとえばいっけんそうとは見えにくい、稼ぐぞ系の人たちやマーケティング界隈の人たちへの思い、これらはまぎれもなく「特別な憎悪」だと思った。
そしてそれをみないようにして温存してきたな。。。
そして、
これらの「特別な憎悪の関係」をみて、それが内側のとてつもない罪悪感をうすめるためのものなんだと認識して手放すことのなかに自由がある・・・・
このことにフォーカスを向けていったとき、特別な憎悪の関係と同じように「特別な愛の関係」の内容についても、それをみないことで罪悪感を温存してきた、ということが初めて感じられてきた。
みてると思ってただけで見てなかった。
特別な愛の関係、特別な憎悪の関係をとおして罪悪感を温存していた。
特別な憎悪と特別な愛の関係は根を同じくしてるものなんだ、というのはよく聞いてきた話だけど、初めて実感をともなってそうなんだと感じられた。
そして自分がこころを開くことができないのは、この特別な愛の関係、特別な憎悪の関係を温存しようとしてるからだ、というインスピレーションがきた。
あらゆる関係性をこのどちらかに分別する前提でもとうとしていて、そのために様子を伺いながら関係に入っていこうとしているのが見えてきた。
こころを完全に開きたい。
そのように導かれているのでしょう。
その導きに従っていくことができますように。