4分裂の体験映像
動画や映像についてまなびはじめていたら、いつのまにかツイッターやYoutube界隈の「動画編集で稼ぐぞ・成功するぞ」的な思考になじみそうになっていて、それらの思考にすごく違和感というか苦しさを感じて立ち止まることになった。
マーケティングとかについてもそう。
いつのまにか、自分が支配してこの世界でうまくやっていくことができる、というモードになりがちで、そうなるとすごく苦しくなって結局そっちは無理なんじゃ、と再確認することになる。
あらゆるすべてにおいて、もう自分でコントロールしようとしたくない。
そういうマーケティングとか「動画編集で稼ぐぞ」界隈でいわれてることとは真逆だけど。
だってそこにはエクスパンションがない。
そんなわけで、動画や映像のまなびにしても、「稼がないといけない」という不安からではなく、純粋に惹かれる方にむかって動いていけばいいのかな、と感じながら内側をみつめていた。
すると、もしもあの4分裂の強烈さを映像化して追体験することができたなら、それがすごくたすけになる、というインスピレーションが来た。
完全なよろこびでしかない、神と一体でしかないところから、小さな狂った思いつきで「自分が神の立場になったらどうだろう?」と考え、自我がありえると信じることを選び、
そこからのあの強烈な恐れと罪悪感、この世界で体験することのできるどんな恐れもそれを薄めたものでしかないような激烈な恐れと罪悪感を感じた(ように見える)瞬間、
そしてそこから神にたいする激烈な恐怖が生まれ、神から逃げ切るためにぐわわわ〜〜〜んとどんどん逃げていって、ついにはこの宇宙をぼわんと生じさせて、
そのなかで小さな肉体に同一化し、否認・抑圧・投影しながら生きられる、神から逃げ延びたまま生きられると信じることを始めた・・・
(そこで特別な関係や特別な憎悪を利用したり、災害や戦争、死の恐怖をつかって激烈な恐れを免除してもらおうとしてる)
その一連の流れを、映像で追っていくと、今ここで何がおこっているのかを受け入れるたすけになると感じた。
まだそんなのつくれる能力もなにもないのだけど、ただこの映像をこころのなかでイメージするだけでも自分にとって非常にたすけになった。
それをイメージしたときに一番違うと感じたのは、
「今目の前にある世界」の意味あいについて。
わたしたちは4分裂の過程についてすべて忘却して解離してるので、今この瞬間の知覚、この世界が、無条件に自分にふりかかっているように感じている。
今知覚されている世界が大前提で、たった今この瞬間生じているすべての「原因」で、そこからすべてが始まっていると。
でも4分裂の体験映像をふまえて、
激烈な恐れのなかでの神からの逃避行の末、最後に「ぼわん」と世界を生じさせた先が今のこの知覚なんだ、という実感が強まると、この世界の知覚は原因ではなくて結果なんだ、ということがより強く感じられてくる。
それと、本当に「自分の」判断はすべてまちがったものでしかありえないこと、「私は間違っていることを望む」しかないこと、
この分離した自分というものが存在しえるということ、そこから生じているすべての苦しみについて、自分が間違っていることを望んでたすけを求めてたすけを受け入れることにしか救いはない、
ということも、より質感をともなって感じられてくる。